私はこれから女性読者にストリップを観ましょうとオススメするのだけれど、「待って、ストリップって男性のためものでしょ?」思う人は多いはず。
若い女性の魅力ある肢体を堪能する、それにより男性に性的刺激を提供する場である――そのイメージは、ひとつも間違いではない。でもそれだけでは、ストリップの魅力の10分の1ぐらいしか説明できていない。いや、もっと少ないかも。
【私の更年期by三浦ゆえ】
「ハダカで踊るって、男性を興奮させるためでしょう?」
女性が裸を披露しながら踊る。それゆえストリップには、「エロか、芸術か」の議論がつきものだ。あくまで私見だけど、エロもひとつの側面で、芸術もひとつの側面、それからエロであり芸術でもあるというのも、ひとつの側面。ほかにも多様な側面があるからこそ、斜陽斜陽といわれながらも、いまなおアツいストリップファンがいるし、この10年、女性の観客は増えつづけている。
10年というのは、私がストリップを観はじめてからの年月である。女友だちに誘われたのがきっかけで、予備知識ゼロどころか、「男が興奮するものでしょ」「古臭いんでしょ」という先入観だけを胸に、東京・渋谷にある劇場を訪れた。その日出演していた6人の踊り子さん全員が、私の先入観を次々と打ち砕いてくれた。気持ちいいくらい、バッキバキに。
以来、劇場に通いつづけている。
女性の観客はもっと増えてほしいし、ストリップにはそれだけのポテンシャルがあると思っている。OTONA SALONEの読者は40、50代の女性が中心で、私はこの層にも全力でオススメしたい。人生で一度はストリップを観てみてよ! 観たら、あなたのなかの何かが、変わるから。
そこでは「ハダカそのものに価値があるわけではない」という逆転現象が起きる
そこでは、裸であることに価値はない……というと大きな語弊があるかもしれないけど、脱ぐことは大前提でしかない。すべての踊り子さんが漏れなく脱ぐから、「裸になった!」というセンセーショナルさはない。裸を見せるのではなく、その先を見せる。裸になることで何かを表現するのが、ストリップのステージだと思う。
若い肉体だから表現できることもあれば、年を重ねた肉体だから説得力をもつ表現もある。
ストリップの劇場に立つのは、若い女性ばかりではない。いまや40代の踊り子さんは少なくないし、50代もいる。だいたいは芸歴20、30年のレジェンド級ベテランだけど、齢を重ねてからデビューしたというケースもある。
裸は、多くを物語る。私が劇場に通いはじめたころ思っていたのは、「完ぺきな肉体って、意外とないものだな」だった。
完ぺき、というのは私の頭のなかにあるボディイメージのことで、細身で、胸はこのぐらいの大きさで、腰はくびてれいて、肌は白くて、一本のムダ毛もなくつるつるで……と、見事なまでに商業に毒されたボディイメージだった。理想とほど遠い自分にダメ出しをつづけてきたのは、私だけではないと思う。脚が太い、おしりが垂れている、手がゴツい……自分の欠点ならいくらでもあげられる。
私たちはおそらく「プロポーション抜群」という合成イメージの呪いにかかり続けている
ステージで人の視線を集めるからには、プロポーション抜群の人ばかりだと思われるかもしれないが、実はそんなこともない。そもそも「プロポーション抜群」って考え自体が、とても商業的だ。ひとりとして同じ人はいない。身長も体重も幅広いグラデーションがあり、バストの形も大きさも、ヒップのラインもさまざまだ。
強い照明のなかで照らされる裸身に目をこらすと、大きなアザや火傷の痕、手術痕が見えることもある。リストカットの痕が無数に走る人もいる。わきばらに肉がよったり、大量の汗をかいていたり……何も意地悪な気持ちでアラ探ししているわけではない。
生身の肉体だなぁと、私はいまもいちいち感動する。女性の裸は、フィギュアじゃない。
「すべての女性は美しい」などと言われると、そんなんおためごかしでしょ、と思うぐらいにひねくれている私が、「アザもリスカ痕も、よった肉も、したたる汗も、ぜんぶぜんぶ美しい!」と心震わせるぐらい、裸にはパワーがある。
映像では、こうはいかない。生きている肉体からしか放たれないものがある。それがクセになって、夢中になって観ているうち、あっという間に10年経った。
ここまでの記事では三浦ゆえさんがストリップに通うようになった根本的な理由を伺いました。【関連】記事ではその視点がもたらした新たなセルフイメージを伺います。
関連▶オバサンでもいいじゃないという開き直りではなく「年を経たからこその価値」を真に感じるその理由とは