
「人生の指針として、僕は脳の中の母が喜ぶことをし続けているのだと思います。嘘をついたり、人を裏切ったりすると、きっと母が悲しむだろう。そんな視線が自分の中に常にあります」
2005年、中学2年生になったばかりの4月に、母親をJR福知山線脱線事故で亡くした尾形麗さん(34歳)。現在は総合美容ブランド「MONNALI(モナリ)」を運営する尾形さんは、なぜ女性の美容という道を選んだのでしょう。その経緯を伺いました。
TOP/尾形さん4歳のころ、自宅での写真
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いつものように帰宅したら、母親がいなかった。ニュースを見て「うすうす察した」理由

尾形さん1歳のとき、お母様の膝の上で。
「その日はいつも通り学校から家に帰ってきたら、必ず家にいるはずの母がいませんでした。玄関の鍵が閉まっていたので弟と一緒に1時間ほど待ちましたが、こんなことは今までいちどもなかったため、うすうすおかしいなと感じていました」
こう語り始めた尾形さん。父親に電話をかけたところ、いちど帰宅して2人を家に入れてくれて、そのままどこかへ出かけていったと言います。
「違和感というか、直感というか、本能的なものがありました。おそるおそる弟と2人でテレビをつけたら、脱線事故のニュースがずっと流れています。ああ、なにか普通じゃないことが自分たちの身に起きたなと、ニュースを見ながら、その予感は確信に変わっていきました」
父親の元にも事故の連絡がきていたわけではなく、自分たちを家に入れる前後でニュースを知って、巻き込まれたことを察して現場に向かったようだと尾形さんは振り返ります。
「というのも、家族に連絡しようにも、誰がどのご遺体なのかも正直分からないレベルだったのではないかと。みなさん、連絡を受けたのではなく、異変を察して自分の家族を探しに集まったのではないかと思います」
その日は夜11時ごろに叔父が様子を見にきてくれ、さらに遅れて父親が帰宅し、そこで何が起きているかの簡単な説明を聞いたそうです。
小6の弟が焼香にきたJR関係者に叫んだ言葉「俺のごはん これからどうすんねん」

尾形さん0歳時、お父様と。
その後、尾形さんは「何とも名状しがたい感覚」に襲われるようになりました。何の現象かわからないけど、突如として襲われたような気持ちになって、パニックになる状態が日中続いたそうです。
「そんな僕たち家族に、周囲の人たちはとても細やかに気を遣ってくれているのもわかっていました。マンションのご近所さんや学校の友人らは『電車』『脱線』『事故』『お母さん』といった単語を口にしないようとても細かく配慮してくれる。それが逆に、子どもながらにありがたいが、どこか申し訳ないと感じていました。難しいですね」
いっぽうで、当時小学6年生だった弟さんは、お葬式の当日にJR関係者が焼香に訪れた際、「俺のごはんこれからどうすんねん」と泣きながら怒りをぶつけたといいます。
「いま思えば、それが掛け値なしの子どもならではの率直な感情だったなと思います。急に母親がいなくなってしまった。そのときに、悲しい、つらいという気持ちよりまず『ご飯がなくなる』というとても明らかなことが口から出てくる。心の中には悲しい、つらい、やり場のない怒りや悲しみがたくさんあって大泣きしているのですが、でも口をついて出てくるのはご飯なんです」
そんな場面を目の前にしても、尾形さん自身は、「弟のほうが小さいし、仕方ない。どうにか前を向いていくしかないよね」と、どこか冷静な気持ちで周囲を見ていたそう。
「僕は、ものごころついたときからカーレースという勝負の世界にいました。その経験ももしかして、この一歩引いた視点を作ったのかもしれません」
子どもであろうと容赦なく「1位以外は全員その他」の世界。知らずに身に着けた世界観とは

幼稚園のころ、レースの練習中。
尾形さんは幼稚園から小学5年生まで、レーシングカート競技に打ち込んでいたのだそう。きっかけは3歳のころ。
「父親がクルマ好きでした。ある日、ちょっと試しにカートに乗せてみたところ、そこそこ結果がよかったようで、『こいつ才能あるんちゃうか』とよくある親バカで始めたみたいです。みたいです、というのは、物心ついたらもう乗っていたので、あとからそうだったと聞いた感じで」
チームに所属し、毎週練習に通います。時には学校を休んでレースに出場することがあったそう。3歳、4歳当時に子どもながらにルールブックを頑張って覚えたことも記憶に残っているそうです。
「純粋に楽しかったし、もともとの性分かもしれませんが負けず嫌いにもなりました。子どもながらに、表彰台に立っても1位でなければ不機嫌になることもあり、子ども同士でけんかをすることもありました。たとえ幼稚園児であろうとオマケはしてもらえない、勝負の世界では1位以外は全員その他で、1位になるのは自分自身の努力。その経験があっていまがあるなというのは感じます」
ここで驚く発言がありました。当時まだ8歳9歳の尾形さんは、表彰台に立ったときに「今日は母が応援してくれたから勝てました」などと、必ず誰かへの感謝を口にするようにしていたというのです。それは誰か、たとえばお父様に、「男なんだからそのほうがカッコいよ」と教わったのでしょうか?
「いいえ、当然そうすべきだという感覚が自分の中にあったのです。カーレースは時間もお金もかかりますし、周囲のスタッフのみなさんの手間、メーカーのみなさんの技術、たくさんの手を借りないと自分が走ることができません。ある意味大人の経済の中の縮小版のような世界だということを、僕はうすうす感じ取っていたのだと思います。『僕はこうして助けてくれる周囲の人たちのために走っているのだ』という感覚が物心ついたときからありました。たぶん、あの世界にいた人たちはみんな似たような感覚を持って育つのではないかと思います」
だがある日、母親に「限界」がきた。突如としてカートを止めることになり

小学校時代に描いた絵。
長く、尾形さんの将来の夢はF1ドライバーでした。父親は本腰を入れて息子のレース活動に伴走を続けていましたが、いっぽうの母親は必ずしも同調してはいませんでした。
「思えば、母はレース観戦にくるといつも祈りながら見ていました。ものすごく怖かったのだろと思います。乗っている本人には怖いという感覚はまったくないので、それも余計に怖かったのでしょう。反対する母親を父親がずっとなだめて、もうちょっと、あと少しとだましだまし続けていた、しかしそれも僕が小5のときに限界がきました。どうしてもこれ以上は止めてくれと言われて、父親が折れたのです」
ある日突然レース活動に区切りがつくことになり、ショックは受けたものの、尾形さんは「ひとりでできることではないので」と受け入れざるを得なかったといいます。
「その分、日曜日は家族の日になり、家族で出かけるようになって、また違う生き方になり、それはそれでよかった。そもそも弟は母親の反対でカートには乗らせてもらえず、『なんでぼくだけレース出られないの、走れないの』と、ずっと怒っていました。どこかであきらめないとならないんだろうとは、ずっと予感していたんでしょうね。楽しかった、熱中していた、すべてを賭けていたカートですから、突然辞めるのはとても寂しかったですけれど」
そして、中学に進学し、中2の春にお母様との突然の別れが訪れたのです。

お話/尾形麗(おがた れい)さん




