
「植物状態になる可能性があります」――愛する人が突然の事故に遭い、医師からそう告げられたら、あなたはその現実を受け止められるでしょうか。昨日まで当たり前だった日常が、一瞬にして失われる。そんな出来事は、誰の人生にも起こり得ることかもしれません。
周囲には気丈に振る舞っていても、心の中では深い悲しみや不安と向き合い続けている人もいるでしょう。医学博士の井上裕之氏も、突然の事故で意識不明となった妻のそばで、深い絶望と向き合うことになりました。
本記事では、井上氏が「別れの試練や失意の乗り越え方」を綴った著書から、人生が一変した“あの日”の出来事と、その悲しみの中で抱いた思いを紹介します。
※本記事は書籍『悲しみを手放す。 大切な人との別れや失意の日々が教えてくれること』(井上裕之:著/日本実業出版社)から一部抜粋・編集したものです
突然の衝突事故に、当たり前の日常が失われる
あの出来事は、今もはっきりと覚えています。家族の人生が一変した日。穏やかな日常が、前触れなく奪われたのです。
1998年1月3日。新しい年が始まったばかりの、凛とした冬の日でした。空はどこまでも澄み渡っていました。
運転席に妻、助手席に私。後部座席では、4歳の娘が静かに遊んでいました。車は帯広から旭川へ向かって、順調に走っていました。
街を抜けると、窓の外には広大な雪原が広がります。仕事に追われていた疲れが、一面の雪景色を眺めているうちに、ゆっくりとほどけていくようでした。
その穏やかな時間は、次の瞬間、不意に断ち切られました。
緩やかな坂道に差しかかった、そのときです。突然、大きな衝撃が、車内を襲いました。私は車外へ放り出され、そして、信じがたい光景を目にしました。
2台の車が正面から衝突していたのです。私は即座に、運転席へと駆け寄りました。
妻の顔をのぞき込む。瞳孔は開き、呼びかけへの反応はありません。焦点はどこにも結ばれておらず、意識を失っていることは明らかでした。
急いで脈拍をたしかめると、今にも止まりそうなほど頼りないものでした。
私と娘は、ほぼ無傷でした。けれど、妻だけは深い傷を負っていました。私は妻の手を握り、必死に名前を呼び続けました。何度も、何度も。しかし、呼びかけに応える気配はありません。
▶一命は取り留めた、でも…医師が厳しい表情で告げたこととは
人間でありながら「植物」と見なされる違和感
どれほどの時間がたったでしょうか。ようやく到着した救急車で病院へ搬送され、すぐに手術の準備が始まりました。しかし、術前に告げられた説明は、絶望に近いものでした。
衝突のダメージが大きすぎること。輸血用の血液が大量に集まらなければ手術すらできないこと。助けたいのに、何をすればいいのかわからない。
病院へ運び込まれてなお、手の打ちようがない現実に、言葉を失いました。何もできないまま、ただ焦りだけが募っていきました。そのとき、思いもよらない偶然が、私たちに救いをもたらしました。
衝突のはずみで、妻の鞄の中にあった携帯電話のボタンが押され、私の実家につながっていたのです。
受話器越しに聞こえてくる私の絶叫に、母はただならぬ事態を察したといいます。即座に警察や親族へ連絡が回り、年始にもかかわらず、多くの人々の協力によって血液が集まりました。
こうして、妻は手術室へと運ばれました。夜11時に始まった手術が終わったのは、明け方の5時。6時間に及ぶ手術は無事に終わりました。ひとまず、一命は取り留めました。けれど、安堵するには早すぎました。
医師は厳しい表情で私に告げました。
「全力は尽くしました。しかし、脳の反応が確認できません。このまま意識が戻らなければ、植物状態になる可能性があります」
妻をICU(集中治療室)で見守る日々が始まり、娘はICUに併設された家族控室で過ごしていました。治療室の扉が開くたび、幼い声が廊下に響きます。
「ママ、がんばれー!」
何度も、その扉に向かって叫んでいました。私はその声を録音し、病室で流し続けました。
妻が愛したクラシック音楽も、絶やすことはありません。意識のない妻の傍(かたわ)らで、私にできることは、ただ手を握り、話しかけることだけでした。
脳波計の針は動かず、横たわる妻の体は、あらゆる機械とつながれていました。相当に厳しい状態であることは、残酷なほど理解していました。そして、医師の宣告が、頭から離れませんでした。
「植物状態になる可能性があります」
胸の奥に重たいものが落ちていくような鈍い感覚がありました。意味はわかっているはずなのに、「植物」という言葉で愛する人が括られることに、現実味のない違和感と、たとえようのない衝撃を覚えたのです。
つづき>>>「血の付いた妻の服を捨てられなかった…」愛する人を失うかもしれない恐怖で眠れない日々。ベストセラー作家が明かす壮絶な過去
■著者:井上 裕之(いのうえ・ひろゆき)
いのうえ歯科医院理事長、医学博士、経営学博士。東京歯科大学大学院修了後、世界レベルの技術を学ぶためニューヨーク大学、ペンシルベニア大学、イエテボリ大学で研鑽を積み、医療法人社団いのうえ歯科医院を開業。自身の医院で理事長を務めながら島根大学医学部臨床教授、東京医科歯科大学、インディアナ大学客員講師など国内外9大学の役職を歴任。その技術は国内外から評価され、とくに最新医療、スピード治療の技術はメディアに取り上げられ、注目を集める。世界初のジョセフ・マーフィー・トラスト(潜在意識の権威)公認グランドマスター。本業の傍ら、世界的な能力開発プログラム、経営プログラムを学んだ末に、独自の成功哲学「ライフコンパス」をつくり上げ、「価値ある生き方」を伝える著者として全国各地で講演を行っている。著書は90冊を超え、累計140万部を突破。実話から生まれたデビュー作『自分で奇跡を起こす方法』(フォレスト出版)はテレビ番組で紹介され、大きな反響を呼んだ。『本物の気づかい』『一流の人間力』(ともにディスカヴァー)、『不敗の人生をつくる言葉』(致知出版社)、『選ばれる人の100の習慣』(日経BP)など著書多数。




