
モラハラ・夫婦問題カウンセラーの麻野祐香です。
「夫が私を素通りするんです」
「まるで私が透明人間になったみたいに扱われるんです」
ご相談の中で、こうした声をたびたび耳にします。
モラハラというと、怒鳴る・暴言を吐く・人格否定を繰り返す、そんな激しい言葉を想像される方が多いかもしれません。けれど実際には、言葉を使わずに相手の心を支配する“モラハラ”も存在します。
その代表的なものが「無視」です。
相手が目の前にいるのに、まるで存在しないかのように振る舞う。一見すると衝突を避けているように見えますが、実際には相手の心と自尊心を奪う行為です。今回は、そんな“サイレントモラハラ”に長年苦しんできたNさんのケースをご紹介します。
「夫には私が見えていない」
Nさんは夫と結婚して10年。結婚当初は、些細な会話や冗談を交わすことも多く、穏やかで幸せな日々を送っていました。ところが第一子の出産を境に、夫の態度が少しずつ変わり始めたのです。出産直後のNさんは、授乳や夜泣きに追われ、体調も戻らないなかで、どうしても子ども優先の生活にならざるを得ませんでした。
夫が話しかけても「ちょっと待っててね」と赤ちゃんを抱き上げる……そんな場面が何度もありました。そのことを夫は「仕方ない」と受け止めるのではなく、「自分が後回しにされた」「ないがしろにされた」と感じていたのかもしれません。やがてその不満は、言葉ではなく“態度”で示されるようになりました。
「帰宅しても、夫は私に『ただいま』と言いません。私が『おかえりなさい』と声をかけても、返事もせず横を素通りしていくんです。そして子どもたちにだけ『今帰ったよ』と声をかける。私には目も合わせず、言葉もありません」
「『今日は雨で大変だったね。お疲れ様』とさらに声をかけても、まるで私の声が聞こえていないかのように、表情ひとつ動かさないんです。夫は私を無視し、子どもにだけ『今日は何して遊んでた?』と笑顔で話しかけます。私の言葉は夫には届かない。私の存在は、夫にとって“ないもの”になっているんです」
休日も同じでした。
「明日、買い物に行きたいんだけど」と切り出しても、夫は無言のままテレビを見続けます。数秒後、まるで私の声が聞こえなかったかのように「このアニメおもしろいな」と子どもに話しかけるのです。
寝室でも会話はありません。「おやすみ」と声をかけても、夫は背を向けたまま無反応。真っ暗な部屋でNさんは天井を見つめ、「私はいない方がいいのかな」と考えながら眠りにつく日々が続きました。
「私は必要ないんだ……」
そう思いながら、Nさんは布団の中でひとり泣いていたといいます。
無言の拒絶に、心をえぐられて
人は誰でも、日々の小さなやり取りの中で「自分の存在」を感じながら生きています。朝「おはよう」と言えば「おはよう」と返ってくる。目が合えば笑顔が返ってくる。そんな一瞬のやり取りが、私たちに安心感と自己の存在を確かに感じさせてくれるのです。
ところが、「素通りされる」「無視される」という体験は、その安心感を根こそぎ奪います。それは「あなたなんて関心の対象ではない」という、無言の拒絶のメッセージ。見えない刃で心を深くえぐる行為です。
無視され続けると、人は次第に「自分は必要とされていないのでは」と感じるようになります。声をかけても返事がない。目を合わせても視線が返ってこない。そんな日々が続くうちに、まるで自分が“透明人間”になってしまったかのような不安が心を満たしていくのです。
「私はいない方がいいのかな」
「この家族の中で、私の存在には意味があるのだろうか」
そう思わずにはいられなくなる……。これこそが、無視のもたらす何よりの苦しみです。こうして自己肯定感は少しずつ削られ、やがて「私が悪いのかもしれない」と自分を責めるようになっていきます。
Nさんも、最初のうちは「夫は仕事で疲れているから」と自分に言い聞かせていました。けれど、何度声をかけても返事は曖昧で、ときには完全に無視をされ、背を向けられる。その繰り返しのなかで、Nさんの自信は少しずつ失われていきました。
優しさが混じる日常
ただ、夫が常に冷たいわけではありません。ある日、Nさんが何気なく「明日、買い物に行ってこようと思う」とつぶやいたときのこと。夫はその場では何も答えず、Nさんは「やっぱり聞いていないのね」と、いつも通り諦めていました。
ところが翌日になると、夫がふいに「そういえば、買い物行くんだよな」と声をかけてきたのです。しかもそのまま一緒についてきてくれ、疲れただろうと気遣ってカフェに立ち寄り、買い物袋まで持ってくれました。言葉は少ないものの、久しぶりに会話が成立したような時間でした。
そんな些細な優しさに触れると、Nさんは思わずこう感じます。
「やっぱり本当は優しい人なんだ」
「これが本来の夫なんだ」
けれど、その“優しさ”があるからこそ、また無視をされても我慢してしまうのです。優しい夫と、冷たい夫。その二つの顔が交互に現れる日常の中で、Nさんの心は常に揺れ動いていました。
夫に問いかけても、答えは返ってこない
ある日、Nさんは勇気を出して夫に尋ねました。
「どうして、私を無視するの?」
夫は顔も向けずに、短く言いました。
「自分の胸に聞いてみろ」
突き放すようなその言葉に、Nさんの胸はさらに重く沈みました。「自分の何がいけなかったのか」とNさんは必死に考えました。確かに出産直後は子ども優先で、夫の話を後回しにしたこともあったかもしれません。けれど、それは母親として当然のこと。夫をないがしろにしたつもりなど一度もなかったのです。
「なぜそれが、私を無視し続ける理由になるのだろう」考えれば考えるほど答えは見つからず、ただ「私が悪いのかもしれない」という思いだけが、心の中に積もっていきました。
夫はなぜ無視をするのか
Nさんの夫が無視を始めた背景には、出産後の家庭の変化があります。赤ちゃん中心の生活の中で、どうしても妻は子どもを優先するようになります。それは自然なことであり、母親として当然のこと。
けれど夫はその状況を「自分が後回しにされた」と感じ、寂しさを覚えました。その不満を言葉で伝える代わりに、態度で返すようになったのです。つまり、「自分だってお前を無視する」という“仕返し”のかたちです。本来なら、「今は子ども中心になるのは当然」と受け止め、協力し合えるのが成熟した関係です。しかし、夫はその寂しさをうまく言葉にできず、沈黙という形でぶつけてしまった……それがNさんを苦しめた“サイレントモラハラ”の始まりでした。
本編では、夫からの無視という“言葉のない支配”に苦しみ、次第に自信を失っていったNさんの心の変化についてお伝えしました。
▶▶夫に無視されても「私に価値がないわけではない」 サイレント・モラハラの夫に支配されていた妻が、“自分の軸”を取り戻すまで
では、Nさんがどのようにして“支配の空気”から抜け出し、心を取り戻していったのか、麻野先生の解説とともにお届けします。




