「東大法学部を出て官僚になるつもりが、法律が好きじゃないことに気づいて」社会課題ミステリの旗手・辻堂ゆめが『今日未明』で描いた「法の狭間で抜け落ちる」ものとは | NewsCafe

「東大法学部を出て官僚になるつもりが、法律が好きじゃないことに気づいて」社会課題ミステリの旗手・辻堂ゆめが『今日未明』で描いた「法の狭間で抜け落ちる」ものとは

女性 OTONA_SALONE/LIFESTYLE
「東大法学部を出て官僚になるつもりが、法律が好きじゃないことに気づいて」社会課題ミステリの旗手・辻堂ゆめが『今日未明』で描いた「法の狭間で抜け落ちる」ものとは

「高齢夫婦が自宅でエアコンをつけず、熱中症で死亡」、そんなニュースに接したとき、あなたは「どのような事件」だと考えますか? 「お年寄りは暑さを感じにくいと言うからね」「認知症ぎみだったのかな」「よくあるいたましい事件だね」。それって本当なのでしょうか。

辻堂ゆめ『今日未明』はそんな「よくある事件」の真相を違う目線で考えてみる、驚きに満ちた作品です。

この作品が特別である点はもうひとつ、辻堂さんのご経歴。お父様の転勤で中1からアメリカに4年在住、帰国後は神奈川県立湘南高校に編入。東京大学法学部在学中に『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞し作家デビューしたのち、新卒で入社した企業を4年目で退職して専業ミステリ作家に。プライベートでは25歳で結婚、27歳で第一子出産、32歳の現在は3人のお子さんの育児中。

いかがでしょうか、オトナサローネ読者としては「どうやったらそんなお子さんが育つんですか!?」とお母さまに質問したいようなご経歴。では、実際どのように「辻堂ゆめ」という作家が完成したのか、直接お話を伺いました。

とにかく絵本が大好きな子どもだった。でも、親の意図をそのまま汲んだというわけでもなく

――そもそもミステリ作家を志したきっかけは?

幼稚園の頃から、絵本がものすごく大好きでした。母が毎週のように図書館に私を連れて行き、家族全員分の貸し出しカードを駆使して絵本を借りてくれるので、家には常に新しい本が50冊ありました。

私は、何か楽しそうなことに接すると「私もやってみたい!」と言い出すタイプの子どもでした。ですから、私も「絵本を描いてみたい!」と言って、つたない絵につたない文章をで作品を作り始めたのがきっかけだったんじゃないかな。弟の絵に文章をつけて紙芝居を作ったり、日記を書いて幼稚園に提出したりしていました。

幼稚園時代の延長で本がとにかく大好きで、小学校に入ってからも子どもが読む本はひととおり読みました。青い鳥文庫ならば松原秀行先生の『パスワード』シリーズや、推理小説ならばそれこそ『ルパン』『怪人二十面相』なんかも好きでした。

大きな転機は高校1年、大ヒットした湊かなえさんの作品『告白』を手にしたこと。「ものすごく衝撃を与える」作品で、私はその衝撃度合いに呆然とさせられてしまいました。同時に、本がこんな威力を持って人を驚かせることができるんだと感動してしまって。「私も、人間ドラマとは別の軸で、読者に衝撃を与えるお話を書いてみたい」。そう思ったのがミステリ作家を志すきっかけです。

――オトナサローネはどちらかといえば辻堂先生のお母さまと世代の近い人たちが読者ですから、「お嬢さまが東大に進学したうえ作家になるだなんて、お母さまはどのようなご方針で教育を?」と感じるのですが、やはり教育が巧みだった?

母にあれだけの量の本を与えられずに育っていたら、そもそも本が好きにならなかったかもしれません。しかし、私には弟が2人いますが、同じ母が同じように育てたにもかかわらず、弟たちはほとんど本を読みません。私は法学部に進学しましたが、弟2人は違う大学の商学部に進学しています。3人とも親が納得する進学をしたとは感じますが、本を好きにならせようというたくらみは私しか反応していません。

真ん中の弟は細かいセリフの多いマンガもイヤというくらいに文字が嫌いで映像やアニメ、ゲームが好き。いちばん下の弟はマンガもライトノベルもアニメも幅広く楽しんでいますが、文芸作品はめったに読まない。本に開眼したのは私だけです。私はいま3人の育児をする親でもありますが、どれだけ確たる親の教育方針があったとしても、やはりそれを上回る「子どもの好み」があるんじゃないかと自分でも思っています。

――ある意味よかった、私の子どもが東大に行けないのは私の育て方が悪いわけではなく、生まれつき東大に行きたいというような好みの子ではなかったせいだと(笑)

私の3人の子どもは女子5歳、男子3歳、女子1歳ですが、上2人は同じように育てていてもかなり性格が違います。上の子は慎重派で、なんでこんなことが怖いの?というようなことを怖がってチャレンジしないのに、真ん中は絵に描いたようなやんちゃ坊主で、やらないでと言ったことを全部やります。ちょっとでも危なそうなことはぜったいやらない、警戒心の強い長女と、正反対の真ん中、同じ親からよくぞこんなに違う子が生まれてくるなと思います。親が関与できる幅って思ったより狭いですよね。たまたま私は母の、本を好きになってほしいという方針にものすごく適合したに過ぎないと思います。

――たとえば、お母さまの学ぶ姿勢からご自身も学んだ、というような要素もありますか?

専業主婦だった母は、専業主婦では飽き足らなかったのでしょうね、英語の教員免許を持っていたこともあって自宅で英語教室を開き、やがて国語の暗唱や読解の教室を開きました。いまも読み聞かせの活動をしています。父は元電機メーカー勤務で、私が中1になった5月からアメリカ支社に家族を帯同して転勤、向こうで4年暮らしました。当初は5年任期で、私は大学を帰国子女枠で受験するつもりでいたのですが、ちょうどリーマンショックで海外支社縮小の波がやってきて。

――私は神奈川県民なので、編入で湘南高校!?どれだけ天才?!と驚きました。神奈川県内で当時1位、現在も2位の公立高校です。

中学1年の5月でアメリカに引っ越して、向こうでは小学校6年生のラスト1か月分に編入しました。高校1年いっぱいいて高2から日本に戻りました。本来は5年の任期での赴任で、帰国子女入試で大学受験の予定でしたが、2008年にリーマンショックがあって海外事業所が縮小されたため2年早く帰ってきました。そもそも高校は私立に編入するものだと思っていたら、親が公立に編入できると言い出して。神奈川県は編入センターが一括で担当してくださいまして、親の意向と私のアメリカでの成績を踏まえて高校に打診をしてくれました。たまたま湘南高校には私の英語で書かれた推薦状を読んでくださる、実用的な英語の能力もとても高い先生がいらして、「TOEFLのスコアもひょっとすると俺より高いくらいだし、これなら大丈夫じゃないか」と受け入れてくださったんですね。その先生が2年3年と担任をしてくださって、とても意義のある高校生活でした。

「東大に行こう」と決めた背景は「官僚になろう」だった。だが在学中に作家としてデビューして

――湘南高校に編入という交渉はご両親がなさったのでしょうか?

父は海外営業を担当するくらいですから、きっと交渉の度胸はありますよね。両親が一丸となって交渉に臨んでくれたのかはわかりませんが、でも湘南でもいけるだろうと考えてくれたことにはありがとうと言いたいです。あとから聞くと、海外赴任も子どもに海外経験をさせておきたいという意図があったといいますので、そういう点も感謝しています。ですが、私は米国在住中、「アメリカはやだ!やだ!」とずっと言っていました(笑)

――4年間ずっとですか?

そう、ずっと。私は日本語が大好きなので。英語も住んでいればある程度はできるようにはなりますが、どうしても自分のメインの言語ではなく不得意な言語ですべての生活を送らないとならない、自分にはこのくらいの自己表現があるが7割がた出せない、その違和感がずっとありました。

心にあるものを言語で表現できないもどかしさ。もっと簡単に言うと、日本語なら30分で終わる宿題が3時間かかる怒り(笑)。それで親にすごく当たっていました。

――うーん、女子の中1、中2はそうでなくても反抗期がおっかないですから、ご両親はかなりのしんどさだったでしょうね。

とりわけ中1、中2の頃は、親は手を焼いたと思います。アメリカに4年住みましたが、いま英語を生かした仕事はしていませんし。真ん中の弟はこれから海外赴任が決まっていて、英語が話せることを生かした配属も受けていますが、下の弟は帰国時に小学校6年生だったのであまり英語の恩恵を受けていないですね。なので、親の狙いもうまくいったり、いかなかったりです。

――東大法学部へのご進学もご両親からの影響があったのでしょうか?

小さなころから作家になりたいという漠然とした夢がありましたが、親には「作家なんか目指してなれるものではないから、将来の夢として置くものではない。もっと現実的な夢を考えておきなさい」と言われていました。もうひとつ、小学校の先生にもなりたくて、教育方面に興味を持って生きてきました。高校時代には恩師ともめぐりあい、教師という職業にも興味が高まりましたが、「たくさん勉強していい大学に入り、教育の中でも広く影響力を持てる官僚になればより意義があるのでは」と親や周囲からも言われて。当時はまだ仕事というものに対する解像度が低かったので、それはそうかと思い、文部科学省に入省するならば一番強いのは東大法学部だと考えて進学先に選びました。

ただ、いざ法律を勉強し始めてみると、あれ私そんなに法律好きだったかなという壁にぶつかり(笑)。法学部は卒論がなくて、試験が鬼と言われていまして、その勉強もまあ大変で。ですが、2年生のときに民間企業のセミナーに参加してみたら、学生同士でプレゼンをして、冗談を交えながらチームビルディングがうまくいったら結果も出るという過程を経験して。この環境は働きやすそうだな、いま自分に合わないなと感じている法律とずっと戦い続けても私は法律の仕事をできるんだろうかと考えこんでしまって。結果、親とバトルして、進路を民間就職に変更しました。

――バトル?!

バトルです。官僚になるために東大法学部に入ったのに、なんで!? 楽な道に流れようとしてない?! と。すでに公務員試験対策の勉強を開始していましたから、そりゃ親は驚きますよね。いや、そうではなくて、性格的に法律と私が合わないのだ、生涯向き合えるとは思えないのだと説得することになりましたが、よく考えると高校の時ここまで考えて進路を選んでいればこうならなかった。仕事に対する解像度が低かったんですね。

――大学生でそこまで解像度が高いならじゅうぶんとしか思えません。そして結局は在学中に作家としてデビューします。どんな大学でも法学部は本当に勉強が大変だと思いますが、ましてや東大。

勉強が大変といってもそれは年に2回の試験前の話、その時期は毎日10時間勉強しますが、それ以外はそこまでではありません。合唱のサークルに入り、3年生まではサークルと学業で忙しくしていましたが、サークル活動もみんな就職活動くらいで下火になります。私は3年生の夏に参加したインターンからそのまま就職先を決めたので就職活動がとても早く終わり、そんなとき「『このミステリーがすごい!』大賞」の締め切りが翌年5月と気づいて、いまこそこれに挑もうと思い立ったんです。

――さらりと10時間と口になさった時点で、なるほど東大は毎日10時間勉強できる人が入る世界なんだなと納得しました。小説も同様に集中して書いたのでしょうか?

完成できたら応募しよう、小説は自分の好きなことだから続けていこうと、ある意味では親の言う通り自分の食い扶持である仕事を確保してから本腰を入れて小説を書き始めたんですね。『このミス』応募作より前に完成させた長編も高校時代にのときにありましたが、デビュー作は大学2年のときに1/4書いてあった作品です。

つづき>>>初の学生優秀賞受賞でデビューするも、ここまで学んだ法律に「さほど興味がなかった」ことに気づき

『今日未明』辻堂ゆめ・著 1,980円(税込)/徳間書店

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辻堂ゆめ(つじどう ゆめ)
1992年神奈川県生まれ。2015年、第13回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。『トリカゴ』で第24回大藪春彦賞受賞および第75回日本推理作家協会賞候補、『十の輪をくぐる』で第42回吉川英治文学新人賞候補。2022年『卒業タイムリミット』がNHK総合で連続ドラマ化。著書に『二人目の私が夜歩く』『山ぎは少し明かりて』『ダブルマザー』などがある。

撮影/宇佐美月子


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