*TOP画像/家治(眞島秀和) 西の丸(長尾翼) 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」31話(8月17日放送)より(C)NHK
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は江戸時代における「毒殺」について見ていきましょう。
江戸時代において暗殺にもっともよく使われていた毒とは?
本放送では、徳川家治(眞島秀和)が知保の方(高梨臨) らが用意した醍醐に混入した毒によってこの世を旅立ちました。本作では少なくない登場人物がこれまでにも毒殺されていますが、江戸時代においてはお家騒動や個人間のトラブルで毒殺が頻繁に起こっていました。
当時、毒殺に使用されていた毒は何種類かありますが、ヒ素は毒殺にその中でも多く使われていたといわれています。特に、亜ヒ酸Hs2O3は暗殺に使われる毒として東洋のみならず、西洋においてもよく知られていました。
その他にも、トリカブトの毒性は広く知られていました。トリカブトの根を煎じた毒を飲むと呼吸が苦しくなり、心臓が止まります。また、フグの毒も当時においてすでに知られていました。
享保の改革を行った徳川吉宗(1684~1751年)の時代、幕府において毒殺事件はかなりの頻度で起きていました。吉宗は21歳の頃に大出世を果たしますが、この時期に兄弟が不自然な死に方をしており、現代においてもこの死について疑問が残っています。もしや、吉宗が自身の出世のために兄弟を殺したのではないかと…。
吉宗自身、毒殺を過度に警戒していた話は有名です。当時、身分が高い人の家には毒見役がいましたが、吉宗は料理番を自分が信頼できる人で固めていたといわれています。
なお、江戸時代においても毒殺は犯罪であり、殺人罪の中でも特に厳しく扱われました。とはいえ、秘匿性の高い犯罪であったため、毒を死因と特定するのは困難でした。
徳川家治の死は「怪死」
家治は50歳頃から体調を崩すことが多く、水腫(すいしゅ)を患っていたといわれています。1786年8月上旬に病状が悪化し、家治は危険な状態に陥りました。そして、20日ほど病と闘った後、この世を旅立ちました。家治の死が発表されたのは9月8日でしたが、この世を去ったのはもう少し前だったと考えられています。
というのも、意次を嫌う者たちは家治の死を利用し、彼を陥れようと企んでいたためです。意次が権力を維持できたのは家治の存在があったからこそであり、家治が不在の今、意次の老中解任は困難なことではありませんでした。意次に対し、家治に毒を飲ませた疑惑をかけ、彼を失脚させようと試みたともいわれています。
こう言われるのも、意次にも怪しい部分が少しはあるためです。家治は意次が推薦した医師が処方した薬を飲んだ後に亡くなっており、さらに死に際には「田沼に毒薬を与えられた」と叫んだという言い伝えがあります。
これは意次を嫌う人たちが家治の死を利用して流した悪い噂にすぎないのか、それとも意次が実際に犯したのか…。現代に生きる私たちは大きな証拠が発見されない限り、真相を知る由がありません。
なお、意次の死後、幕府で影響力を高めていくのが、「べらぼう」で井上祐貴が演じている松平定信です。本作では寺田心演じる賢丸時代に意次によって挫折を味わっていましたが、史実においても意次に恨みを抱いており、反田沼派のリーダーになったことで知られています。
本編では江戸時代に横行した「毒殺」の実態についてお伝えしました。
▶▶「ふくの死、田沼意次の失脚」洪水と飢饉が奪った命と権力。蔦重たちを襲う絶望の連鎖
では、洪水と飢饉に揺れる江戸の民と、大きな転機を迎えた意次と蔦重の運命についてお届けします。
参考資料
齋藤勝裕『「毒と薬」のことが一冊でまるごとわかる』ベレ出版 2022年
津本陽、 童門冬二『[新装版]徳川吉宗の人間学: 時代の変革期におけるリーダーの条件』PHP研究所、2009年
日本博学倶楽部『日本史の闇「あの暗殺事件」の意外な真相』PHP研究所 2008年