昭和に生まれ、平成に母親となった私たちが、令和に子の自立を見届ける。子どもはいずれ家を出ていくものですが、私たちがすんなりと送り出す気持ちになれるのか。あるいは、子がすんなりと離れてくれるものなのか。
ご家庭ごとにそれぞれであろう「子どもを送り出す日」のお話を、経験者に伺うシリーズです。
前編『娘が家を離れる。これまで2人で帰った道を今日は1人だけで帰る、電車の中で涙がどうにも止まらない』に続く後編です。
【子どもが家を離れる日】#1後編
お話/リツコさん
54歳、埼玉県在住。行政書士事務所勤務。同じ年の夫と結婚30年めを迎えた。28歳の長女は4年前、就職1年半で実家を離れた。そして今年の2月、22歳の次女が就職を前に実家を離れた。
結婚当時は気づかなかったけれど、夫はモラハラだった。愛情のある時期もあったのだけれど
夫婦仲の悪さの理由ですか? この時代になってやっとわかるようになりましたが、私の夫にはモラハラの気があります。でもモラハラってちょっと前までは「うちもそんなものよ~」「男の人ってそういうものよ~」でしたよね。なので珍しい話ではないのだと思います。
我が家の場合は上の子が産まれてちょっとくらいから「おかしいな……?」と思い始めました。いよいよ「これは」と気づいたのは、私が子どものPTAでよその男性と接触するのを極端に嫌がられてから。ちょっと行事の確認の電話がかかってきたくらいのことで「この男はなんだ、浮気か」とキレるんです。きっと夫は私を主婦として束縛することで安心していたんだろうなと、いまなら言葉にできますが、当時は漠然とした違和感にすぎませんでした。でも違和感があったから私は必死で仕事を探して、おかげさまでよい職場に巡り合い、今に至るまで仕事をしています。
もうひとつ、ちょっと言いにくいのですが……性的な不一致もありました。断るとものすごく不機嫌になるのです。
上の子が産まれてしばらくして、まだ傷も治っていないから無理と断ると不機嫌になる、それがスタートでした。それまではまだ愛情のある夫婦だったなと思うのですが、生まれたら女性は育児で必死になって変わりますよね、夫はそれについてこられなかったのでしょうね。どんどん嫌いになっていくのがわかるし、出産も育児も大変だったから一人っ子でいいかなと思っていたけれど、長女2歳の頃に「やっぱり兄弟がいたほうがいいかな」と感じるようになって、子どもをつくるためだけに仕方なくタイミングを合わせるようになりました。でも、それ以外は心底いやでした。
不機嫌になるだなんて、いま思えば、気持ちの痛みだけでなく、身体の痛みすらまったくわかってもらえていなかったんですね。でもこういうことってかなり仲のいい子にしか相談できないし、大抵の友人は夫とも顔見知りだからそれほど悪しざまには言えないでしょう、希望に応えてあげられない私がおかしいのかなってずっと思っていました。いまは、単に日本全体にこういう性の教育が足りないだけだなと思っています。
積みあがる段ボール、次女が家を離れる日までのカウントダウン。また私は同じ気持ちを繰り返す
次女との別れは大学3年の終わりから始まりました。3年の年末年始に、もう3年の終わりで卒業単位が全部とれるので4年になるとき一人暮らしをしたいと言い出しました。「え、ちょっと待って、その前に本当に進学も卒業もできるかわからないし、保険や年金のこともある。そもそもお姉ちゃんは自分でお金を貯めたけどあなたはお金あるの?」と聞いたら、ないですよねそりゃ。なので思い止まってくれました。
そして4年になってすぐ内定もとり、インターン以外はバイトに励んで100万円貯めていました。秋には「就職前に家を探して引っ越したい」と改めて言われ、とうとうきたか、これは本当に出ていっちゃうなって。そこからはもうカウントダウンでした。
また段ボールが積みあがって、ベッドを見にニトリに行っての日々がやってきて……、お姉ちゃんと比べて自立心旺盛だからお買い物も親の意見なんかまったく聞かず、半分喧嘩です。お金にケチって安いものを買おうとするのを見て、「カーテンはそんなに買い換えないからいいものを買ったほうが長持ちするよ、差額は出すよ」なんてお金の話をするときだけは受け取ってくれるのですが。
新しい家には電車で毎日少しずつ荷物を運び出していました。家に帰ってきて家で寝ているうちはよかったけど、もうこの日が引っ越しだねって決めた日、長女のときと同じように私だけが一人で家に帰る電車の中で、やっぱり私はまた泣きました。泣くんだろうなって思ってましたし、次女に「お母さんそろそろ帰るね」って言ったときにもうすでにひくひくと泣きながらで、娘側もちょっとセンチになってフードを被ってました。
電車でまた、まったく同じように泣きました。生まれてから今日までのシーンが一つ一つ脳裏に浮かんで、座ったままひたすら涙をこぼして。翌日は休みで、家に一人、もう起きてすぐにひくひくと泣き始めて、やがて声を上げてわんわんと泣きました。声をあげて泣くなんて何年ぶりだろうってふと思ったり。次女の部屋を片付けようとするのですが、やっぱりまた生まれる前から生まれてから、あんなことがあった、こんな姿だったといろんなことを思い出してしまって、もう泣く以外のことができないんです。1週間はそれこそ起きてから寝るまでずっと泣いていました。職場ではさすがに我慢するのですが、やっぱり心ここにあらずだったみたいで。あとから同僚に「あのころ元気がなかったよね、様子がおかしかったよ」と言われました。
朝ぱちっと目が覚めるでしょう、さてご飯の準備しなきゃって思うんですが、いや、もういらないんだって思い出す、この瞬間から泣いてしまうのです。もともと別居をするつもりで自分と子どもの家事だけをすることにしていたのですが、ついに家の中から「子どものためにすること」が消えてしまうと、もうその寂しさといったら。
ご飯も作らない洗濯もしない、子どものために何もしなくてよくなった。いつでも2人のことを気にはしているけれど、行ってらっしゃいもお帰りなさいも言わない、どこで何してるかもわからない。夕焼けをふと見てまた泣いてしまう、いま2人はこの夕焼けを見てるかな。
寝る前も、これはいまも変わりませんが、無事に家に帰れたかなって考えてしまう。敢えてわざわざ連絡はしないけれど、毎日毎日ご飯食べてるかなって思い出しては神様に無事を祈る、女の子だから2人を無事に家に帰してくださいって。
戻ってきてほしいわけではないのだから、ただ毎日無事を祈り、慣れる以外にできることがない
こんな経緯で次女が家を離れて5か月たちました。卒母5か月です。少しは慣れてきたけれど、やっぱり寂しい。これから卒母する人へのアドバイス? うーん、こんなの心構えなんてできません。いずれ子どもが家を出ていくことはわかっていたし、私はこんなに悲しかったけれど、友人は「喜ばしいことだよ」って言ってくれたりもします。巣立ちはいいことだよって。もちろんそうなんだけど、それよりも寂しさが勝ちます。素立たなくてもいいのにって。
誰かに悲しさを話しても、私の場合はラクにならなかった。だって、悲しいねって話して状況が変わるわけではないし、娘が戻ってくるわけでもない、むしろ戻ってきてほしいかというとそんなこともないのです。
ただ自分が慣れる「日にちぐすり」に頼るしかない。
先日中山美穂さんのお別れ会を映像で拝見したのですが、デビュー38周年記念ライブでファンに贈った「貴方がどこにいても、何をしていても、誰といても、陽の降りそそぐ キラキラした場所で、ずっと幸せであるように願ってるし、祈ってます」という言葉でぼろぼろと泣いてしまいました。彼女はファンに向けて語ったけれども、子どもに対する母の気持ちをそのまま代弁していただいたみたいで。
これが私の、人生にいつかくる、誰にでもいつか訪れる、卒母の体験でした。
前編▶娘が家を離れる。これまで2人で帰った道を今日は1人だけで帰る、電車の中で涙がどうにも止まらない
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