*TOP画像/道廣(えなりかずき) 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」24話(6月22日放送)より(C)NHK
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は江戸時代における「お偉いさんたちの罪と処罰」について見ていきましょう。
特権階級でも罪を犯せば処罰の対象に
近代的な法治国家が成立する以前、殿様などの特権階級が社会で勝手気ままに振る舞っていたと思っている人も多いのではないでしょうか。しかし、実際のところ、江戸時代においても藩主や武士であっても、社会規範から逸脱すれば恐ろしい処罰を言い渡されることもありました。
武士は威張っていたわけではない。庶民を刀で斬ればお咎めアリ
江戸時代は「士農工商」という身分制度があり、「士」に該当する武士がトップに君臨。とはいえ、武士であっても私闘や殺傷は処罰の対象になりました。
武士は重大な落ち度がある庶民に対しては斬りつけが認められることもあったものの、人を斬りつければ大問題になります。関係各所への届け出や落ち度を証明する証人が必要だっただけでなく、20日間の謹慎が命じられました。
藩主・浅野長矩は人を殺したわけではないのに切腹を言い渡された
武士よりも圧倒的偉い地位にあった藩主も刀を抜けば、厳しい処罰を時と場合によっては科されました。我が命を失うことも…。
例えば、1701年、勅答の儀の日、赤穂藩主・浅野長矩は吉良義央を江戸城の殿中松之大廊下で斬りつけました。義央は命に別状はなく、長矩の罪状は現代でいえば殺人未遂、もしくは傷害罪に相当するでしょう。
長矩には切腹と領地没収が5代将軍・綱吉より言い渡されました。長矩が義央を斬りつけた理由は義央によるいやがらせ行為ともいわれていますが、確かなことは分かっていません。長矩は精神的に不安定な状態であったと考える識者もいます。
なお、江戸城内での抜刀は重大な違法行為とされていただけでなく、重要な儀式の日に騒動を起こすことも決して許されるものはありませんでした。長矩は義央を斬りつけたことのみがお咎めの対象になったわけではありません。それでも、切腹とはあまりにも重すぎる罰だと思うのは筆者だけではないはずです。
松前藩主・松前道廣は素行の悪さを理由に隠居を命じられた
えなりさんが「べらぼう」で演じている松前藩主・松前道廣も処罰を言い渡されています。本作では人を弾の的にして遊ぶサイコパスとして描かれていますが、実際の道廣は残虐的な人物ではありません。残虐性を秘めた人物というよりも自由奔放で責任感がない人物といえるでしょう。
道廣は命じられた仕事をきちんと行わないばかりか浪費家で、幕府から注意を何度も受けていたことが記録から分かっています。夷地の施政に隠居を命じられるほど不真面目な仕事ぶりだったよう。さらに隠居の後も素行の悪さが目立ち、永蟄居(=終身にわたる自宅軟禁)を命じられたといわれています。
なお、道廣にはロシアと密貿易(抜荷)を行っていた噂もあります。こうした疑惑も永蟄居を命じられた要因の一つと考えられています。
江戸時代、悪いことをすれば「懲らしめ」の対象に。藩主も牢屋に入ったの?
現代であれば、罪を犯した者は処罰の対象というよりも更生の対象になります。特に、ここ最近はその傾向が強く、今月1日からは刑務所において懲らしめよりも更生や社会復帰に重きを置いた施策が新たに始まりました。
牢屋内の治安は非常に悪く、集団での暴行やいじめは日常茶判事。罪人と確定していない人が牢屋内で殺されることもありました。牢屋の管理者が被疑者同士の殺し合いを問題視することもなかったといわれています。
なお、庶民や下級武士、下級役人は罪が確定するまでは牢屋に入れられましたが、藩主が牢屋に入ることは基本的にありませんでした。切腹は牢屋に入る間もなく実行されることもありましたし、領地の縮小や謹慎が処罰の場合は牢屋に入る必要がないためです。
本編では、江戸時代における「身分の違い」と処罰の実態についてご紹介しました。
▶▶“抜荷(ぬけに)”の罠が花魁を追い詰める。一方、また城で残酷な遊びにふけっていた道廣は【NHK大河『べらぼう』第24回】
では、誰袖の“抜荷”企てが予想外の展開を迎える様子など、ドラマの核心に迫ります。
参考資料
井野邊茂雄『維新前史の研究』 吉川弘文館 1996年
河合敦『早わかり江戸時代 ビジュアル図解でわかる時代の流れ!』日本実業出版社 2009年
橋場日月『図解 面白いほどよくわかる!日本史』 西東社 2019年