こんにちは。神奈川県在住、フリーライターの小林真由美です。ここ数年のマイテーマは「介護」。前回に続き、今回も義母と同時期に経験した「もう一つの介護」について書きたいと思います。その対象となったのは、当時83歳の父です。
日頃から趣味を楽しみ、適度に運動もこなし、地域の活動にも参加。まだ残る黒々とした髪をいつも丁寧に整え、身だしなみには人一倍気を使っている。そんな姿を見ていたからなのか、「介護はまだまだ先」と勝手に思い込んでいた私。でも、そんな父を突然介護することになるなんて。そして、数ヶ月後に「別れの日」が訪れてしまうとは、夢にも思いませんでした。
【アラフィフライターの介護体験記】#10
▶告知から3カ月がたち、ついに体重が40台に…
ついに体重が40台に。がん告知から3ヶ月が過ぎ、父に起こった変化
2023年2月に「すい臓がん」で余命3ヶ月を宣告された父。すでにがんは広がり、主要な血管や神経に浸潤しているため、大きな手術は難しい。年齢的に手術や化学療法は体の負担になることから、「何もしない」という選択肢もある。そんな医師の言葉を聞き、父は「抗がん剤治療はせず、住み慣れた家で、このまま穏やかな時間を過ごす」という道を選びます。
がんの告知を受けて3ヶ月が過ぎた辺りから、父にあらゆる変化がみられるようになりました。
一日の中でベッドにいる時間が増え、食事の量は減り、体重は40台に。これまで窮屈そうに着ていたパジャマは、まるでオーバーサイズのようで……。これには、母も少しショックを受けているようでした。
そんなある日、父より「頼みたいことがあるから明日来てほしい」と連絡が。翌日実家に着くと、「昨日はよく眠れたみたいで、今朝はわりと気分がいいのよね?」と明るく話す母に対し、「うん、まぁね」とテレビを観ながら静かに答える父。
そこには、私がこれまで見てきた“日常”がありました。
▶「がんの末期」は家族にとって絶望のドラマでしかないのか
がんになっても「家族の日常は消えない」と気付いた日
陽射しが差し込むリビングで、2人はお茶を飲みながら他愛もない会話をしている。話すのは母が中心で、父はテレビに目を向けながら、適当に相槌を打つ。それでも母は気にすることなく、楽しそう。
これまでずっと目にしてきた光景を、久しぶりに目の当たりにし、私は急に満たされた気持ちになりました。そして、あることに気付くのです。父が「抗がん剤治療はせず、住み慣れた家で、このまま穏やかな時間を過ごす」という道を選んだのは、この「日常」を家族で感じ続けるため。
そして、それは誰よりも私が求めていたことだった、と。
父ががんにり患して、すぐに私は絶望的な気持ちになりました。父は「がんになった人」、母と私は「看護(介護)する人」として、これからは、その関係性でのみ会話を交わすことになるのだろう。「日常」は、次第に消えてゆくと思っていたのです。
しかし、今あるのは、かつての見慣れた景色で、たとえ父が病気で痩せてしまったとしても、目の前にいる2人に何も変わった様子はない。
「がんになっても、ちゃんと『日常』はあるんだよ」私はそのとき、父からそう教えられたような気がしました。
▶父と一緒にした「終活」が、親子の思い出を増やしてくれた
「終活」を通じて自然と増えた親子の会話
しばらくすると父はテレビを消し、「遺言……まぁ、そんな大袈裟なものじゃないんだけど」と言い、話し始めます。内容は「葬儀のこと」「お墓のこと」「あらゆる手続き関係」が主で、几帳面な父らしく「葬儀場は〇〇がいいと思うんだけど、見学しておいたら? そのほうが“当日”も安心だろうし」といった、細かいアドバイスも……。
その後は、手つかずのまま気になっていたというアルバムや趣味に関する本の整理をしたいと言うので、倉庫の奥に眠るそれらを運び出し、終活をサポートすることに。
それから1週間、写真の中の“私の知らない父”を見て、それにまつわるエピソードを聞き、あっと言う間に時間が過ぎてゆきました。思うように力が入らない手足を見つめながら、「もっと早く始めればよかった」と、父は残念そうな顔をしていましたが、少し前までの「病状を聞く会話」ではなく、「自然な親子の会話」に戻ることができたのは、この終活があったから。今でも、この時間を大事に思っています。
▶▶次のエピソード 私が経験した「がんで親を亡くす」ということ。「亡くなった今のほうが父を身近に感じている」