日々が飛ぶように過ぎていく中、自分のあり方に漠然と迷う40代50代。まるでトンネルのように横たわる五里霧中のなか、「ほんのちょっとしたトライ」で自分のあり方を捉えなおすには「最初の一歩」に何をしてみればいいのでしょうか。読者の体験談をご紹介します。
■バターさん
中国地方在住、49歳。3年前に夫と死別、高校2年と中学3年の娘と3人暮らし。義父と義弟が経営する不動産会社(ビル、アパート経営など)の事務をしながら、飲食店の経営に携わる。
【私を変える小さなトライ#12】
結婚前の職場で「介護福祉士」を取得
こんにちは。バターです。義父が経営する居酒屋は赤字続きで給与も出ないなか、長年、無我夢中で働いていました。いちばん大変だったころは正直、どんな毎日を送っていたのか、思い出せないほどで……。親族経営の会社で、昭和の価値観を振りかざす義父。そんな義実家とも、うまくやっていきながらも理不尽なことが多くて。今回はその「悔しさ」をバネに資格取得に挑んだ話をしたいと思います。
結婚前は、訪問介護のヘルパーをしていました。ヘルパーは人気のある人からお呼びがかかるんですが、私も結構、お客様からご指名をいただけていたんですよ。介護の仕事は最初は資格は不要なんですが、働いているうちに資格を取ってみようと思い立って、「介護福祉士」を取ったんです。そんなに難しいものではないと思いますが、学科の勉強もありますので、仕事が終わってから夜、勉強に励みました。当時は独身だったので、勉強するのも割と時間が取れたんです。
介護職と居酒屋の2足のわらじはキツかった!
2005年ごろ、不動産業を営む夫の義実家が、居酒屋を始めることになったんです。そうして、私は介護と居酒屋の2足のわらじを履くことに。当時は夕方からしか営業していなかったので、昼は介護の仕事、夜は居酒屋でアルバイトをしました。親族経営の会社はみんなそんなものかもしれませんが、今、振り返ると、結婚前からいままで「ずっと働きっぱなし」でした。
義実家はいくつか会社をやっていて、それなりに儲かっていたみたいです。バブル期はほかの商売も手広くやっており、今以上に土地や建物などの資産を持っていたそうです。だから、義父や義弟はお金で苦労をしたことがないみたい。バブルのころは今よりも手広くビルの経営をやっていて、貴金属を扱う会社もやっていました。でも、バブルが弾けるとともに休眠。その休眠していた会社を引き継いで、居酒屋を始めたんです。
社長は義父、私たち夫婦が現場の経営を任されました。小さな会社なので、社員の給与計算や口コミサイトの管理をするのも私の仕事です。ずっと赤字続きで半年くらい私たち夫婦は給与をもらえない状況が続いたときもあって、本当にきつかったなぁ。コロナ前の2019年に過去最高の売り上げを記録して、「やっと努力が報われたね」と喜んでいたのも束の間、コロナ禍で、また大変な状況になりました。
「よし、宅建士を取ろう」独学で参考書をひたすら暗記する日々
経営者といっても、居酒屋のほうは収入が不安定なので、日中は、義父の不動産会社の事務を手伝っています。最初にチャレンジした資格は10年くらい前の「宅地建物取引士(宅建士)」でした。実務で資格を使えるわけではないのですが、あるとき「よし、宅建士を取ろう」と発奮しました。
夫は不動産業を営む家で生まれていますので、日常会話でも不動産の専門用語が出てきますが、私は分からないので、少しでも知識をつけたいなと。それに、いざというときの仕事にもつながるかなという思いもありました。思えば、私の行動のモチベーションは「悔しい」なんですよね。夫はモラハラ気味でよく暴言を吐いていて、夫婦喧嘩が絶えなかったときがあったんです。「勉強でもやらないと、自分が壊れていくんじゃないか」と思って、勉強に向かいました。
そのころは、本当にお金がなかったので、スクールにも行けず、通信講座の受講もできず、TACが出している宅建の参考書を買って、30分の通勤時間や子供が寝た後に勉強しました。勉強法といっても「同じ参考書をひたすらやる」という感じです。本についていた「丸暗記カード」などを使ってひたすら暗記しました。不動産業の事務をやっているといっても電話応対や書類送付くらい。不動産業の実務はほとんどやったことがありませんでしたので、合格して、自分の自信につながりました。39歳のときでした。
本記事では、バターさんが2足のわらじを履いてがむしゃらに働き、コロナ禍を期に宅建に挑戦して見事合格したお話を伺いました。続く後編記事では、FP2級の試験にも挑戦し、夫と死別したあとも資格に挑戦し続けるその「理由」について伺います。
つづき▶▶私が資格の勉強をするのは、ある「思い」を克服するため。そして未来への準備のため。仕事と子育てに追われる生活だけれど、次はあの難関資格を目指したい