
夫婦問題・モラハラカウンセラーの麻野祐香です。
長い年月、モラハラに耐え続けてきた人は、「否定」と「支配」の中で生きるうちに、自分がどんな人間だったのかさえ、分からなくなってしまうことがあります。
今回は、10年ものあいだモラハラ夫に洗脳され、自己肯定感がゼロの状態にまで追い込まれてしまったものの、そこから抜け出すことができたSさんのお話です。
DVトラウマが招いた「静かな支配」
Sさんには、今の夫と出会う前に「DV離婚」という壮絶な過去がありました。元夫からの激しい暴力、大声での罵声、家具が壊れる音……。命からがら家を飛び出し、ようやく逃げ延びたSさんの心は、ボロボロに傷ついていました。
自分に自信を失い、特に男性に対して強い恐怖心を抱えるようになっていたSさん。そんな時期に出会ったのが、会社の同僚だった今の夫です。彼はどんな時も穏やかで、言葉を発することさえ難しいほど怯えていたSさんのそばに、静かに寄り添い続けてくれました。
「傷ついた君を守りたい」
その言葉に救われ、男性恐怖症だったSさんの心は、少しずつ彼へと向いていきました。
付き合い始めの彼は、非の打ち所がないほど穏やかな存在でした。Sさんの過去を否定することなく、
「よく頑張ったね」
「もう怖い思いなんてさせないよ」
と、優しさと安心感で丸ごと包み込んでくれたのです。しかし、これこそがモラハラ加害者の恐ろしい手口です。彼らはターゲットの心の隙、つまり「どうすれば、この女性が自分に依存するか」を、驚くほど正確に見抜きます。
最初は「唯一無二の理解者」として完璧に振る舞い、相手の信頼を完全に手に入れる。それが、彼らの得意とするやり方なのです。
Sさんは、この「究極の優しさ」という罠に、知らず知らずのうちに引き込まれていきました。そしてこの体験こそが、後にモラハラが酷くなっても、
「本当は優しい人なのだから」
「私が悪いから怒らせてしまうんだ」
と、自分を責め続けてしまう原因になっていきます。これこそが、モラハラ被害者が“逃げる決断”をできなくなってしまう、大きな理由なのです。
付き合い始めて1年。Sさんは彼の優しさを信じ、ついにプロポーズを受けました。その時は、本当に心から「この人なら大丈夫」と信じ切っていたのです。しかし……。
結婚後、少しずつ彼の言葉に棘が混じり始めました。やがて、怒鳴ることも増えていったそうです。
結婚によって明らかになった夫の本性
結婚という“縛り”によって、相手が簡単には逃げられない状況になると、モラハラの本性は姿を現します。
Sさんの心の中では、いつも葛藤が渦巻いていました。結婚前の、あの優しかった彼を信じたい。だからこそ、
「彼は本当は優しい人なのに」
「私の至らなさが、彼を怒らせてしまうんだ」
そう自分に言い聞かせ、必死に彼の言動を正当化していたのです。しかし現実は、いつ彼の“モラスイッチ”が入るか分からない、薄氷の上を歩くような毎日でした。
仕事で疲れ果て、料理を作る気力がなくて惣菜を並べた日。あるいは、夫が贔屓にしている野球チームが試合に負けた日。他人から見れば「そんなことで?」と思うような些細なきっかけで、さっきまで普通に会話をしていたはずの夫が、突然激昂するのです。
その豹変ぶりに、Sさんは言葉にできない恐怖を覚えました。しかし、あまりに理不尽な怒りだったこそ、それに対してきちんと反論を返すことが難しく、「どうすれば機嫌が直るのか」「何を言えば怒らせないのか」と常に夫の顔色を伺い、ビクビクしながら過ごすことが日常になっていったのです。
夫の罵声に、前の結婚のトラウマが刺激されて
「なんでそんなこともできないの?」「お前が俺を怒らせるんだ」
夫に罵倒されるたび、Sさんの脳内には元夫からの暴力の記憶が鮮烈に蘇りました。これは過去の恐怖が現在に引き戻される「フラッシュバック」です。
震えが止まらず、思考が真っ白になるSさんに対し、夫は容赦なく言葉の刃を向け続けます。彼は無意識か意図的か、彼女の「トラウマ」という急所を突き、動けなくさせていたのです。
そのうえ夫は、「普通の人はそんなことやらない」「普通は、こう考えるものだ」という言葉を、日常的に口にしていました。この「普通」という言葉は、モラハラ加害者が好んで使う強力な武器です。「普通の女なら、もっと気が利く」といった、正解のない“世間の常識”を持ち出すことで、Sさんの言動や考え方を否定し、人格そのものを「異常」「欠陥があるもの」として位置づけていくのです。
こうしてSさんは、「自分はおかしいのではないか」「自分が未熟だから責められるのではないか」と思い込まされ、少しずつ支配されていきました。こうした否定の言葉を浴び続けながらも、Sさんが逃げられなかった決定的な理由があります。それが、暴言のあとに必ず訪れる「ハネムーン期」と呼ばれる、驚くほどの優しさでした。怒鳴り、見下し、否定を繰り返していた夫が、ある瞬間を境に、付き合い始めの頃のような穏やかな表情に戻るのです。
「ごめん。俺が悪かった」
「お前が大切だから、つい熱くなってしまったんだ」
そう言って、優しく抱きしめてくる。
その瞬間、Sさんの心には、
「やっぱり彼は、根は優しい人なんだ」
「私がもっと気をつければ、この幸せな時間は続くはず」
という、かつての淡い希望がよみがえってしまいます。
この「地獄」と「天国」を行き来するような、終わりのない繰り返し。それこそが、被害者から“自分の感覚”を奪い去っていく、洗脳の正体です。
やがてSさんは、
「私を見捨てずにいてくれるのは夫だけ」
という歪んだ感謝すら抱くようになり、自分の意思で考え、動く力を、少しずつ削られていったのです。
家の中で一人で過ごしている時も、仕事をしている時でさえ、Sさんの頭の中には常に夫の視線があり、夫の声が響いていました。「こんな服を着たら、彼は怒るかな」「こんな話をしたら、彼は呆れるかな」物理的には自由なはずなのに、心の中には常に夫という“監視役”が住み着いている。そして、その監視役は休むことなく、Sさんを責め続けるのです。
夫の顔色ばかりを気にする。夫に聞かないと、何も決められない。自分で選ぶことが、できなくなる。これが、10年という歳月をかけて夫によって植え付けられた、支配の完成形でした。Sさんの身体は自由でも、Sさんの心は、この10年間、一度も自由ではなかったのです。常に、夫に支配され続けていました。
本編では、DVトラウマを抱えたSさんが、「優しさ」と「恐怖」が交互に現れる夫のもとで、10年ものあいだ心を支配されていった経緯についてお伝えしました。
▶▶ 「これはおかしい」と言葉にした日。10年の洗脳から抜け出すために、彼女が最初にしたこと
では、洗脳状態にあったSさんが、どのようにして「これはおかしい」と気づき、少しずつ自分を取り戻していったのかをお届けします。




