「生んでくれなんて、誰が頼んだ!?」夫からの怒声。発達障害児のシングルマザーに。息子の可能性を育めたのは「差し伸べられた手」があったから【体験談】 | NewsCafe

「生んでくれなんて、誰が頼んだ!?」夫からの怒声。発達障害児のシングルマザーに。息子の可能性を育めたのは「差し伸べられた手」があったから【体験談】

女性 OTONA_SALONE/LIFESTYLE
「生んでくれなんて、誰が頼んだ!?」夫からの怒声。発達障害児のシングルマザーに。息子の可能性を育めたのは「差し伸べられた手」があったから【体験談】

この「家族のカタチ」は、「私たちの周りにある一番小さな社会=家族」を見つめ直すインタビューシリーズ。いまや多様な価値観で描かれつつある、それぞれの「家族像」を見つめることは、あなたの生き方や幸せのあり方の再発見にもつながることでしょう。

今回から2回にわたって話をうかがうのは、美佐子さん(仮名・65歳)。

21歳で結婚、翌年には息子を出産するものの、信頼を寄せることができなかったという夫とは間もなく別居。その数年後には息子に「自閉症(※)」という診断が。

現代より発達障害への理解やサポートが乏しい時代に、息子や自らの人生といかにして向き合い、歩みを進めたのか?美佐子さんの「家族のカタチ」をお聞きしました。

(※)近年は「自閉スペクトラム症(ASD)」と呼ばれ、診断基準も変わっていますが、記事中では当時医療機関から診断された「自閉症」という表現を用いています。また、ASDには様々な症状・特性があり、本記事でご紹介するご子息のケースはあくまでも一例です。

【家族のカタチ #8 婚姻編】

「やっぱり、やめてもいいかしら?」――直感を貫けなかった、最初の結婚

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「実は私、ちょうど1年前に乳がんが見つかったんです。4月に手術をして、その後は抗がん剤での化学療法も。その間、夫は涙も見せずに、甲斐甲斐しく病院への送迎や介抱をしてくれました。片方の乳房が全摘となった時には、『こんなふうになっちゃって、イヤだよね』と尋ねる私に、夫はあっさり『大丈夫。中身は変わらないからさ』と。『ああ、この人のこういうところに惹かれたんだ』と、彼との結婚を選んだ理由を改めて思い出しました」。

静かに、穏やかに、力強く、夫への思いを口にする美佐子さん。が、実はこの「夫」は美佐子さんの再婚相手。今の幸せを手にするまでの道のりは、平坦ではありませんでした。

自分の気持ちは置いてけぼり。違和感だらけの新婚生活

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「最初の結婚は、21歳の時。前の夫は1歳年上で、短大時代に参加していた複数大学合同の合唱サークルで出会いました。お互いの実家にも頻繁に行き来していて、私の父も大歓迎。間もなく先方から『結婚』の話が出たときも、両家共に大賛成でした。

『23歳で結婚しているのが普通』という時代でしたからね、私は21歳で若干早めだったとはいえ、年齢的にもそういうものかしら、と。母は特に張り切って、嫁入り衣装を設えるときなんて、まるで母の分を選んでいるじゃないかというくらいに前のめり(笑)。結婚の話が出てから半年ほどの間に、周りがものすごい勢いで動いて、結納、式場手配……と準備が進んでいきました。

――でもね、『あの人の何が魅力だったか?』と問われても、ハッキリ思い出せないの。合唱という共通の趣味はあったけれど、印象にあるのはそれくらい」。

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そんな状態では、不安に苛まれるのも自然なことでした。

「挙式まであと3ヶ月という時期に、ふと『やっぱり結婚できない』という思いがよぎったんです。『この人となら、ずっと一緒にいても大丈夫』という安心感が抱けなくて。そこで恐る恐る、母に『この結婚、やめられないかな……』と相談してはみたものの、『こんなに準備しているのに、何を今さら!?』と烈火のごとく怒られて。『ごめんなさい、わかりました……』と引き下がりました」。

幼稚園教諭として働いていた当時の職場にも、「結婚を機に退職する」と既に伝えていたこともあり、「確かに、もう後戻りはできない」と現実を受け入れたといいます。

「実はね、幼稚園を退職してから結婚式に至るまでの記憶が、見事にすこん!と抜けているんですよ。どうやって過ごしたか、さっぱり覚えてないんです。辛いことがなかったとも言えるでしょうけれど、心が動く楽しいこともなかったんでしょうね。

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いざ結婚してからも、新婚旅行では夫はまともに小遣いも持たず、私の手持ちでようやく親類へのお土産が買えるような状態。家に帰れば、同居する義父はなんだか女性になれなれしいし、義母は嫁をもらった息子(=美佐子さんの夫)をまだまだ子ども扱い。挙句の果てに、どうやら家業の経営は火の車らしいということも、嫁いで初めて知りました。

義母は私のことをとても温かく迎えてくれたし、親戚にも『かわいくていい嫁だ』とばかり話してくれていたようです。でもね、それをもってしても拭えない違和感がふくらみ続けました」。

我が子への心配と、夫婦仲の悪化。「私が、あなたを育てる」

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そんな不安と違和感の一方で、結婚から間もなく、美佐子さんはお腹に命を授かります。

「自らの職に幼稚園教諭を選んだくらいですから、子どもは何人か欲しいと思っていました。切迫流産での入院中も、『大丈夫、私はちゃんとあなたを育てるから、安心して生まれておいで』とお腹に何度も呼びかけていましたね」。

この子は私が守る――そんな強い思いで腕に抱いた息子の様子が気になりだしたのは、生後1ヵ月を過ぎた頃でした。

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目が合わないし、笑わない。子どもを相手にする仕事柄、泣き声で何を訴えているのかという予測がつくのに、この子がなんで泣いているのかは、さっぱりわからない。何かがおかしいぞ、と」。

短大の保育科時代に子どもの障害について学んだ経験も手伝って、我が子が1歳を迎える頃には近くの機関に足を運び、発達について相談した美佐子さん。ところが――。

むしろ怒られてしまったんです。『こんなに可愛い子が、おかしいなんてことはありません。お母さんがそんなこと思っていたら、いけないですよ!』って。私はむしろ息子の障害の可能性を冷静に受け止めていたのですが、それをはなから否定されてしまえば、然るべき支援にもつなげられない。行き詰りましたし、何より、母親失格と言わんばかりの反応にとても傷つきました」。

一方で、その頃既に、美佐子さんの夫婦仲も悪化していました。

「遡れば、夫が結婚したのは、大学を卒業した直後――つまり、彼の仕事ぶりがわからないまま、新婚生活がスタートしたんです。ふたを開けてみたら、家業が厳しい状態にあるのに、しかも妻子を抱えても、夫は真剣に向き合おうとしない。親からたばことコーヒーが買えるくらいの小遣いをもらいながら、安穏としている。そんな生活に耐えきれなくなり、私は実家に頻繁に帰るようになっていました。

孫と一緒に里帰りを重ねる娘をみて、私の父も、業を煮やしたんでしょうね。夫に仕事を融通しようとしてくれました。『裕福とまでは言わずとも、今よりはずっと良くなるはずだ』って。ところが夫は、『そんなことせんでもええやろ』って、ちっとも変わろうとししませんでした。

優柔不断な態度に腹は立つし、このままでは生活もままならない。ついに夫婦で大喧嘩になりました。そうしたら、まだ小さい息子が私と夫の顔をキョロキョロ不安げに見つめながら、大泣きしたんです。普段は人の表情に敏感ではない子が、ですよ。――ああ、絶対にこんなことを繰り返したくない、と思いました」。

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こうして美佐子さんは、2歳になろうとする息子と共に嫁ぎ先を飛び出し、隣県の実家に生活の場を移すことを決意。かつてお腹の中の我が子に呼びかけた、「あなたは私が守る」という言葉を体現した瞬間でした。

「正式な離婚に至るのも、息子が『自閉症』という診断を受けるのも、そこから数年後の話です。離婚直前、息子が診断を受けたことを一応夫に報告したら、『障害児を生んでくれなんて、誰が頼んだんや』って言われましてね。『やっぱりこの結婚は止めておくべきだったのだ』と、確信せざるを得ませんでした」。

我が子の可能性を育むことができたのは、差し伸べてくれた手を握る準備があったから

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ひとり親として、我が子を育てるために。美佐子さんは、塾講師や医療事務などの経験を経て、息子が4歳になる頃、公立保育園の保育士という立場に腰を据えます。

「実家に戻った直後から、私が仕事をするために息子を保育園に預け始めましたが、そこでも紆余曲折ありましたね。最初の園では、『あなたの子はおかしい』と数カ月で退園命令が。でも、その直後にお世話になった園との出会いが、それはそれは素晴らしかったんです。

入園希望の面談の時点で息子の様子を見抜いて、健診のためのセンターまで紹介してくれました。おかげで、ようやく息子に『自閉症』の診断がおり、かつて専門家に叱られた私の心が救われたばかりか、然るべきケアにつなげることもできました。その後も、親を非難したり苦情を寄せたりもせず、息子に伴走してくれましたね。息子が20歳になった時には、『成人のお祝いを』と、当時の先生がプレゼントを手に自宅に来てくださって……本当に感謝しています」。

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その後の小学校にも、また恵まれた出会いが。

「1年生から2年生への進級時、2年連続で担任になった先生が『私もプロなので、任せてもらえませんか?』と、個別指導を申し出てくれたんです。以来、毎週金曜日は居残りで個別学習をして、終わったら先生と一緒に学童へ。入学当時は『普通学級は1年生だけかもしれません』と言われていたのに、3年生以降、きちんと授業でテストを受けて持ち帰って来るどころか、成績が上位レベルに上がったんですよね」。

「もちろん、これを教師の標準として求めるのはお門違いで、あの時代だからこそできたことだとも思う」と、言い添える美佐子さん。

それでも、我が子の特性を客観的に受け止め、周囲からの援助を軽やかに受け入れる準備があってこそ、他者から差し伸べられた手をしっかり握ることができたと言えるでしょう。そして何より、自分と息子が健やかであるために、「シングルになる」ことへと踏み出した決断こそが、美佐子さんらしい「家族のカタチ」を実現するための最初の一歩でした。

ここまでは、美佐子さんの結婚・離婚と、自閉症の幼い息子さんとの日々についてお伝えしてきました。
「もう「大人」な年齢になった、発達障害のわが子。息子の未来のために、母としてやめたこと・始めたこと【体験談】」では、息子さんを支えたもう一つの出会いと、美佐子さんの再婚から見る「家族のカタチ」についてお届けします。

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《OTONA SALONE》

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