「私は死ぬならガンで、と思っています」私たちを救ってくれた看護師の言葉。父が「すい臓がんで余命3カ月」という現実を、家族全員が受け入れるまで | NewsCafe

「私は死ぬならガンで、と思っています」私たちを救ってくれた看護師の言葉。父が「すい臓がんで余命3カ月」という現実を、家族全員が受け入れるまで

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「私は死ぬならガンで、と思っています」私たちを救ってくれた看護師の言葉。父が「すい臓がんで余命3カ月」という現実を、家族全員が受け入れるまで

こんにちは。神奈川県在住、フリーライターの小林真由美です。ここ数年のマイテーマは「介護」。前回に続き、今回も義母と同時期に経験した「もう一つの介護」について書きたいと思います。その対象となったのは、当時83歳の父です。

日頃から趣味を楽しみ、適度に運動もこなし、地域の活動にも参加。まだ残る黒々とした髪をいつも丁寧に整え、身だしなみには人一倍気を使っている。そんな姿を見ていたからなのか、「介護はまだまだ先」と勝手に思い込んでいた私。でも、そんな父を突然介護することになるなんて。そして、数ヶ月後に「別れの日」が訪れてしまうとは、夢にも思いませんでした。

【アラフィフライターの介護体験記】#8

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「私は死ぬならガンで」。その言葉の意味とは

「私は死ぬなら『がん』で」と言った看護師が教えてくれたこと

父の様子が気になり、不安な気持ちを抑えられなくなった私は、これまでお世話になっていた総合病院に「緩和ケア認定看護師」(※)が在籍していることを知ります。そこで連絡したところ、「一度、お会いしませんか?」とすぐに予約を取ることができました。

(※)日本看護協会の認定を受け、緩和ケア分野における熟練した看護技術と知識を持つ看護師。 看護師として5年以上の実務経験と、認定看護分野における3年以上の経験が必要

さっそく、私がここ数日感じている不安な気持ちを伝えると、次のような話がありました。

▶「ガン」という現実を受け入れるまでのプロセスとは

残された時間を意識し、家族一緒に“今”を生きることができる

【心の変化】

■がんにり患したら、多くの人はショックを受ける(衝撃、これは当たり前のこと)

■頭では何とか現実を受け入れようとするが(受容)、不安や恐怖で現実を受け入れられない状態となる(否認)

■受容と否認を繰り返し、最終的には現実を受け入れ行動する(適応)

■このように、衝撃→受容と否認→適応 と推移する

さらに「今は特別なケアをするよりも、近くで見守り寄り添うことが、お父さまにとって一番うれしいことかもしれません。それで十分、気持ちが伝わりますよ」という言葉。そして、「ご家族も無理をせず、周囲を頼ること。そのために私たちがいるんです」とも話してくれました。そこで私は、まだ心の奥にあるモヤモヤを伝えます。

私:「人には寿命があり、いつかは別れの日がやって来る。頭では分かっているものの、『がん』という事実がショックで、まだ受け止めきれなくて。やるべきことはあるのに、何も手をつけられないんです」

看護師:「確かにショックですよね……。でも、おっしゃるとおり『死』は必ず訪れます。余命宣告を受けるということは、『突然の死』ではなく『期限付きの死』。残された時間を意識し、“今”を生きることができるんです。それは家族も同じで、一緒にその時間を大切にできます。もし選ぶことができるなら、私は死ぬなら『がん』で、と思ってるんですよ」

その話を聞いて、私は少しずつ心の中が変化するのを感じました。同時に、「父に残された時間が、あとどれぐらいなのかは分からない。でも後悔のないように一日一日を大事にしよう」と決めました。

父のことは身近な親戚や友人、仕事関係の方には伝えており、私が望むときにはサポートを、それ以外はほどよい距離感で見守ってくれました。それが、どれほど有難かったか……。今でも感謝の気持ちでいっぱいです。(もちろん夫にも感謝!)

▶認知症の義母と父、「ダブル介護」状態に

やっぱり「ダブル介護」は難しい。我が家が乗り切れたのは?

ここで少し、お義母さんの話を……。父が「すい臓がん」にり患して以来、まるでその様子を見ていたかのように、お義母さんからは一切連絡がありませんでした。

「軽度~中等度の認知症」と診断を受けているお義母さんは、我が家の近くにある高齢者専用住宅で暮らしていましたが、次第に料理や洗濯などの家事に不自由さを感じ始めるようになります。本人の希望もあり、ちょうど1ヶ月前に近隣の「サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)」(介護型)に引っ越しをしたばかりでした。

引っ越し直後は、夫と私が週に数回訪問。部屋の中は片付いてきましたが、その後も毎日のように連絡があり、「テレビのリモコンがない」「腕時計が見当たらない」など「無くし物」が多発(実際はある)。そのたびに「前の家に置いてきた?」「引っ越し業者の方が持ち帰った?」などと口にし、最終的には「田舎に帰りたい」というオチで、その繰り返し(涙)。

しかし、お義母さんにとって「環境が変わる」ということは、たとえ本人の希望であっても、不安が大きかったはず。特に認知症の場合、変化に順応するのが難しいと言われているため、この状況は仕方なかったのかもしれません。

ある日、夫が義母宅を訪れると、私に頼む予定の買い物のメモがあったそう。さらに、「段ボールの中から真由美さんのものが大量に出てきたの(そんなハズはない)。来週でも来るように言ってくれる? 電話もこないし、忙しいんでしょ」と、何だかご機嫌斜め。このままでは感情が爆発すると感じた夫は、やむをえずお義母さんに父の様子を伝えました(余計な心配をし、お見舞いに行くと言いかねないので、本当は当分話さないつもりだった)。

▶父の余命を伝えたことで認知症の義母は…

「もう私のことは大丈夫だから、お父さんのことに専念するよう伝えて」

するとお義母さんは、心配した表情を見せながら、「それは大変! もう私のことは大丈夫だから、お父さんのことに専念するよう伝えて」と言ってくれたとか。そこからは、義母宅への訪問や病院への付き添いはすべて夫が担当し、私は遠隔でのサポート(買い物や日中の電話対応)に徹しました。

改めて考えると、お義母さんが「サービス付き高齢者向け住宅」(介護型)に住んでいなければ、こうはならなかった。食事は食堂を利用でき、入浴や掃除もサポートしてくれる環境があってこそ成り立ったもの。もし1ヶ月でも引っ越しのタイミングがずれていたら……と考えると、恐ろしいです(汗)。

父のほうは、在宅で療養するための準備を進めます。優先したのは、「介護保険のサービスを利用するための申請」「自宅エリアで訪問診療医を見つける」こと。そして、この訪問診療医、看護師との出会いが、この後大きな影響を及ぼすのですが……。これはまた、次回お話ししたいと思います。


《OTONA SALONE》

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