中山美穂、「最後の恋が最高の恋であってほしい」と私たちが心の底から願いながら彼女を見送る「正直な理由」 | NewsCafe

中山美穂、「最後の恋が最高の恋であってほしい」と私たちが心の底から願いながら彼女を見送る「正直な理由」

女性 OTONA_SALONE/LIFESTYLE
中山美穂、「最後の恋が最高の恋であってほしい」と私たちが心の底から願いながら彼女を見送る「正直な理由」

女優・中山美穂さん急逝のニュース。私は電車の中で、携帯をいじっていた際に知ったのですが、思わず「え」と大きな声を出してしまったのでした。

50代という若さであまりに突然ということもありますが、時代を代表するアイドルというのは、それぞれの人の胸の中に「一番いい姿で、永遠に生き続ける」もので、いわば不老不死的な存在。そんな彼女が旅立ってしまうとは、にわかに信じられるはずがありません。

同世代を生きた私たち。誰の心の中にもそれぞれの「ミポリン」の声と姿がある

中山さんがいなくなってから、はや一週間。親交のあった人が、中山さんとの思い出を語りだしましたが、こういう時どうしても思い出してしまうのが、昭和の大スター・美空ひばりさんにまつわるエピソードなのです。

ひばりさんが亡くなった時、多くの芸能人がひばりさんの人となりと共に、ひばりさんと親しかったかエピソードを明かして涙にくれていました。しかし、後年、ひばりさんの妹さんにあたる佐藤勢津子さんが著書の中で、ひばりさんは社交的なタイプでは決してなく、ごく限られた少数の人を信用してつきあうタイプだったと「自称親しい人」の存在を否定し、本当に親しい人ほど余計なことはしゃべらず、残された家族に気を使ってくれたと明かしていました。

今、中山さんについて語っている人が「自称親しい人」だったというつもりは毛頭ありませんが、中山さんの“最後の恋人”とされる男性が言葉少なに追悼していることに、私は勝手に安堵するのです。

まだ信じられない、この世に中山美穂がいないだなんて。そんな私たちを安心させてくれるのは

今年のお正月に、サンケイスポーツが中山さんのバンドメンバーで、9才年下のベーシスト・永田雄樹さんとの熱愛を報じました。永田さんはインスタグラムに「中山美穂の音楽に触れ、共に奏でられたことはこの先もずっと音楽家としての誇りです」と恋人というより音楽のパートナーとしての立場で、追悼文をアップしています。

その気になれば、「誰も知らない中山美穂」を語って脚光を浴びることだって不可能ではないのに、それをしない。どんなに気を付けて話しても、不慮の事故という悲劇性と不確実性から憶測で物を言う人は後をたたず、ファクトチェック機能がほぼないSNSで拡散されてしまえば、それが真実とみなされてしまう可能性は否定できません。

心理学の観点から言うと、人はネガティブな情報を信じやすいという実験結果もありますし、一度広がった情報を正すのは、ほぼ不可能に近いと言えるでしょう。それならば、中山さんが愛したご家族、ファンのためにも余計なことは話さないほうがよいという判断をされたのではないでしょうか。もしそうなら、中山さんの「最後の恋」はすばらしいものだったと想像するのです。

54歳、彼女の最後の恋を私たちはきっと祝福できる。それまでの彼女のいろいろな記憶も

10代の頃からスターだった中山さんの恋愛相手は、みなさんもご存じのことでしょう。80年代のトップアイドル、カリスマスタイリスト。結婚相手は作家でミュージシャンの辻仁成さんでした。結婚後は色々とプレッシャーの多い東京を離れて、パリに移住します。お子さんを1人授かりましたが、外国での暮らしや子育てというのは、聞こえほど優雅ではないもの。

2014年10月号「美ST」(光文社)において、中山さんは何年か前から離婚を考えていたこと、子宮筋腫をわずらっていた時に好きな人が出来たことを明かしています。相手の男性が手術の手配や付き添いまでしてくれたことで、中山さんの離婚したい気持ちは抑えられなくなりますが、つきつけられた離婚の条件は、お子さんの親権を辻さんに渡すことだったそうです。

この男性も芸術家でしたから、おそらく、中山さんは男性の才能に惚れるタイプなのでしょう。しかし、才能があることと「売れる」ことは、また別の問題です。両方を兼ね備えた人というのはごくごく少数派で、故に私生活の部分ではびっくりするほどエゴイスティックになったりもするでしょう。加えて、中山さん自身もスターなわけですから、フツウの女性とは違う部分があってもおかしくない。こうなると自らも才能がありながら、中山さんを優先してくれるというバランス感覚を持つ男性が求められるわけです。

言われてみると、中山美穂は「オードリー・ヘプバーン的な人」だったのではないか

晩年に自分に合うパートナーを見つけたと言えば、銀幕の妖精、オードリー・ヘプバーンが頭に浮かびます。バレエシューズ、サブリナパンツなどファッションアイコン生みの親であり、映画「ローマの休日」や「ティファニーで朝食を」などで知られる世界的な女優ですが、彼女の少女時代が暗いものであったことを知る人は案外少ないのではないでしょうか。

山口路子さんの著作「オードリー・ヘップバーンの言葉」(だいわ文庫)を元に、彼女の生涯をご紹介していきましょう。第二次大戦中、ナチスの侵略から逃れるために、当時中立国であったオランダで過ごしますが、この時に両親は離婚しています。オードリーはこの離婚で「自分は父親に見捨てられた」という思い込みを持つようになったそうです。戦争中はひどい食糧難で餓死寸前まで追い詰められるなど、戦争のむごたらしさを経験したことが、晩年のユニセフ活動につながっていきます。両親の不和と戦争という争いに巻き込まれた経験から、オードリーは平和や幸福な家庭という「安心できる場所」を持つことに並々ならぬ思い入れを持っていたそうです。

オードリーの最初の結婚相手は、人気俳優、メル・ファーラーでした。すでに人気を確立していたオードリーですが、家庭を大事にするために仕事を制限し、待望の第一子を授かります。母となった喜びに浸るオードリーですが、メルは前妻との間に子どもがいたこともあってそれほどの感動はなく、オードリーを失望させます。

もっとも、オードリーの家庭への執着は、健全な家庭に育った人にとっては、ちょっと理解しがたいものだったかもしれません。夫が出張するとき、オードリーは家の中の食器や絵などをすべて自らパッキングし、出張先のホテルでは備え付けの家具を移動させて、それらを飾ったそうです。なぜこのようなことをしたかというと、「人間にとって、一番大切な場所は家庭だから」。一事が万事ですが、ともかく家庭を大事にしたいオードリーと、そこまで思い入れのない
夫との間には溝が生まれ、二人は離婚します。

オードリーや中山美穂にしか「語れない」恋の姿が確かにある、私たちは見出すことができる

次の結婚相手は、9才年下の精神科医・アンドレア・ドッティでした。お子さんも授かり、幸福な再婚生活と言いたいところですが、夫が仕事で遅くなる時は、病院に訪ねて行って二人で夕食を取るなど「家族(夫婦)とは、こういうもの」というルールを相変わらず課していたようです。また、夫も遊び癖が治らず、たびたび女性問題を起こし、二人は離婚します。

最後の相手は、8才年下のオランダ人の俳優・ロバート・ウォルターズでした。上述した2人の夫と比べると、社会的な成功度合は若干低かったかもしれません。しかし、常にオードリー寄り添い、ユニセフ活動のきっかけを作り、サポートもしてくれました。こんなにうまく行っている2人でしたが、結婚という形を取りませんでした。理由を聞かれたオードリーは「式を挙げなくても、私たちはすべてを手に入れています」とコメントしたそうです。最後の恋が最高の恋だったわけです。

愛や人生は肩書でも形でもなく、中身なのだということは、オードリーや中山さんのようなスターでなければ、教えられないことなのかもしれません。最愛の息子さんもパリからかけつけて会うことができたそうで、本当によかったと思います。中山さんのご冥福をお祈りしたいと思います。


《OTONA SALONE》

特集

page top