東日本大震災で、児童と教職員合わせて84人が犠牲となった宮城県石巻市の大川小学校の、当日の避難行動や事後対応を検証する「大川小学校事故調査委員会」の第四回目の会合が8月24日、石巻市内で行なわれました。とくに事後対応については、新たに論点が出されました。直後の緊急対応や被災者・遺族等の支援のほか、事故からの教訓抽出や反映についても提示されました。ただし、中間報告を含めて、当日、学校では何があったのかを、まだ公表していないために、いらだちを隠せない遺族もいる。
検証委で新たに提示された事後対応の論点は、1)関係機関が、事故・災害の対応として実施しなければならない各種対応として、A、事故直後の緊急対応、B、行方不明者の捜索、2)関係当局による被災者・遺族等の支援として、A、生存者・遺族に対するこころのケア、B、被災者・遺族等への説明・情報提供、C、継続的、多面的な支援、3)事故からの教訓抽出・反映として、事故調査・再発防止があげられました。 JR西日本の福知山線脱線事故の事故調査委にかかわった佐藤健宗さんは、「生存教諭が津波被害の詳細をできるだけ早く話をしていれば、早期に救出できたのではないか。また、情報提供として、市教委はマスコミに先に発表し、あとで遺族が知る、ということが多く、被災者・遺族への優先的な取り扱いをすべきだった」などと話していました。
事故対応をめぐっては当初、検証委員会では触れないのではないかと言われていたのですが、市教委の事故対応で遺族らの反発を招き、この調査委が設立した経緯もあり、取り上げることになったのです。その意味では、市教委の不十分な対応が検証されることになっています。 一方、調査委では、中間報告でも、3月11日の地震直後に何があったのかを提示しませんでした。これまで市教委は独自調査をし、教職員や児童たちの会話、さらには地域の人たちの言動などをまとめています。しかし、生存教諭からのヒアリングが十分に出来ていないことなど、当日の行動が説明しきれていない点があります。 もちろん、地震当時に学校にいた教職員11人中10人が亡くなりました。
そのため、詳細な話し合いの中身や意思決定について解明できないかもしれません。しかし、生存教員や生存児童のヒアリングをしていけば、何らかのヒントが出されるかもしれません。 「山さ、逃げっぺ」と、亡くなった児童が発言したとも言われています。なぜ、避難が遅れたのかをできるだけ詳細に検討する必要があります。このヒアリングの状況が不明瞭なために遺族はいら立っています。検証委は「誰にいつ話を聞いたのか」は公表しないことにしています。そして、詳細なことは「最終報告までに出す」との一点張りです。そのため、当初期待していた遺族のなかにも不信感が芽生えてきています。
これまで会合を傍聴して来て、最も期待していた児童、教職員の動きがまだ見えてきません。自然科学的なデータは出始めていますが、いったい何が話し合われたのかがまだ見えていません。良心的な見方をすれば、すでに多くのヒアリングが行なわれているのですが、途中で公表すると、最終報告に影響が出る恐れがあるため、まとまったものをまだ出せないのでしょう。そう信じたいとは思います。 遺族会は大川小の校庭に、犠牲となった児童と教職員の名前を刻んだ慰霊碑を建立し、翌25日、慰霊式を行ないました。遺族の中でも、検証へのスタンスは違います。思いもそれぞれです。そんな中、ある遺族が、別の遺族に書類を渡していました。「クラスだより」です。亡くなった児童が書いたものが残っていたのです。大川小周辺の家は流されました。亡くなった子どもの思い出もほとんどありません。少しでも子どもの痕跡を欲しているのです。検証もそうした痕跡探しであってほしいと思っています。
[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
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