東日本大震災を経験して、「これまでの人生観を大きく変えた」と思っている人たちとの出会いが多くありました。
宗教者でさえ、儚さやむなしさを感じているというのです。私が取材をした僧侶たちも「宗教観を変えた」と口を揃えて言っていました。また、宗教者でなくても、この震災体験はそれまでにない思いを抱いているという人が少なくありません。
9月のある日。福島県南相馬市鹿島区の沿岸部を車で走っていると、プレハブ小屋を見つけました。周囲は、津波被害にあい、瓦礫が残っていました。近くの野球場にも津波が到達し、被害が出ています。しかし、そのプレハブ小屋には電気が通じ、人が住んでいる気配がありました。近寄ってみると、そこは50代の夫婦が二人いました。何やら、片付けをしていたのです。
この場所は酒やタバコを売っている商店と自宅を兼ねていましたが、津波によって跡形もありません。自宅の玄関だった箇所がかろうじて判別できるくらいでした。ただ、車庫が残っていました。その車庫を改良して、プレハブ小屋を造り、住めるように工夫がされていました。
「いまは仮設住宅にいて、ここにはたまにくる程度です。しかし、5月頃に仮設住宅を申し込んだんですが、なかなか当たらない。そのため、仮住まいにしようとしたんです。避難所生活よりは良いと思って」
そう話す男性(58)は元公務員。震災の当日3月11日、男性は職場にいました。この家には妻(52)と長男(27)、母親(76)の3人がいました。海岸線までは1.5キロほどあるようで、まさかここまで津波がくるとは思っていなかったといいます。地震があり、津波がくると思った時に、男性をのぞく3人は逃げようと準備をしていました。津波がやってきた時、3人が家の玄関にいたのです。そこで3人とも流されてしまい、妻だけが助かりました。長男は遺体で発見されましたが、母親の遺体はまだ見つかっていないということです。
「妻は必死に木材に捕まったのです。そして奇跡的に助かったのです。私の人生観は変わりました。それまでは、公務員を辞めたら、兼業農家をし、悠々自適に過ごそうと思っていたんです。しかし、地震や津波、原発事故があり、人間の生命のはかなさを知ったんです。それまで生きていた人が突然亡くなることがあるんだな、と思ったんです」
たしかに、これまで伝承さえなかった地域でも津波に飲込まれました。人智を超えた災害だったということも言えるでしょう。しかし、生死をさまよう体験をしている人たちの話を聞いていると、それは「命があるだけもよい」という意識が強まっているように思います。それまで我慢して仕事をしてきた人が、なにか吹っ切れるような思いを抱いた人もいます。
何のために働くのか。
何のために生きるのか。
特に、子育てを終えた世代が強くそう感じている人が多いように感じました。
この男性もそう思っていたことでしょう。子育てを終えて、あと2年で定年退職だったのです。そこに、震災。津波で家や店が流出したばかりか、放射能災害も受けるのです。これまで築いてきたものをすべて失い、なおかつ、目に見えぬ放射線と闘わなければなりません。この場所は、事故のあった福島第一原発から30.1キロ地点。屋外退避指示地域のわずかに外です。東京電力に補償を求めることができるかが難しい地域でした。しかしなんとか交渉の末、補償が得られるようになったといいます。
妻が助かり、こうして二人で生活ができることについて、男性は「氏神様が流されなかったからもしれない。先祖供養をしていたために、妻が助かったかも」と思うようになっていたのです。それまで深くは考えていなかったことでです。もちろん、関連付けを証明することもできません。ただ、何かの思いがそうさせたのでは?との思いが、男性の人生観を変えたことはたしかです。
プレハブ小屋の前には、カセットデッキが置いてありました。「何を聞いているのですか?」と聞いてみると、都はるみの曲だと言っていました。男性は「母親が(都はるみを)好きだったんです。こうして流していれば、母親が気がついて、遺体も見つかるかもしれないと思って」と話していました。
私も震災で何かの変化はあったと思います。3月11日以降、取材で被災地に向かうのは100日を超えました。それまで東北といえば数年に一度訪れる場所でした。また、これまでの震災取材といっても、被災地を節目節目に訪れるだけでした。なぜ、私がこんなに多くの日数をかけて取材しているのでしょう。言葉にできないなにかが私を揺さぶっているのだと思います。
[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://foomii.com/mobile/00022)を配信中]
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