3月11日の東日本大震災では、生と死の狭間だった人たちが多い。
当然ながら、無数の物語があったことだろう。
その中で、一つの舞台がまだ揺れている。宮城県石巻市の大川小学校だ。
全校児童の約7割に相当する74人が死亡・行方不明になったのだ。
市教委の調査では、地震が起きた当時(午後2時46分)は、児童は帰宅途中か、帰りの会の途中だった。
教師の指示のもと児童たちは校庭に集合した。
帰宅途中の児童たちも学校に戻って来た。
こうした状況は大川小だけではない。時間帯としては、むしろ、ほとんどの学校が似たような状況だったことだろう。
大川小は、北上川沿いにある。学校の目の前は裏山がある。
北上川には堤防があり、付近には新北上大橋もあり、そこも高台になっている。
津波を想定した場合、より高いところへ逃げることになるが、二つの選択肢があった。
学校では「裏山に逃げよう」とか、「裏山では木が倒れるかもしれない」などと話し合っていたという。
裏山か高台か、判断が揺れていた。
結局、避難先場所を「高台」と決め、避難を始めたのは午後3時25分。約40分が経っていた。
その約10分後に津波に襲われたのだ。
私も津波に飲まれた大川小を何度か訪れた。4月と5月に訪れた。
学校は瓦礫の山で埋まっていた。
校門があったと思われる付近には、たくさんの花が置かれ、鯉のぼりが掲げられていた。
当時の凄まじさを物語るのは学校そのものだけではない。
周囲もほとんどが津波に飲まれてしまっている。
人が住んでいた形跡は見当たらない。
そこに至る途中も、地盤沈下や浸食によって道がない。
工事用の仮道路が作られており、かろうじて行くことができる。
周囲はほとんど何も残っていない。防風林もないために、強い風が吹いていた。
さらに河口付近に進むと、地盤沈下によって進むことができない。
学校側を非難することはできる。
津波を想定した避難訓練をどこまでしていたのか。
避難場所を具体的に決めておらず、そのために対応が遅れたことは否定できない。(続く)
《NewsCafeコラム》
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